2016年02月08日

自由と平等の罠、そして、リーダーを選ぶ基準とは・・・

親殺し、子殺し、無差別殺人、
そんなニュースが多く流れているような
最近の時世ですが、
メディアが、そんな話題ばかり扱っているという
ことも要因のひとつではあるものの
自殺者の増大を含め、
なぜか、殺伐とした事件が多くなってきているような
雰囲気があります。
虐めが殺人になってしまったり、
利己心か自己欲望ばかりを優先して、
他人のことを考えていないような人が、
増えてきているのかもしれません。
なぜ、日本はそんな社会になってきたのでしょう。
そんな傾向が増加してきたのは、
おそらく、間違いなく、西欧化推進と
西欧崇拝という流れの末であるように感じられます。
その様な流れの中で、東洋的な価値観や
日本的な価値観が、失われていった結果が、
経済的には繁栄していったのかもしれませんが
精神的には社会の劣化が進んでいったのでは
ないでしょうか。

そして、その根源にあるものは、実は、
自由と平等という一見すると素晴らしいと
感じさせられる甘言の裏に潜んでいたりするのです。
そして、自由と平等こそが、
人の成長を拒むサタンの仕掛けたもので
あったりするということを多くの人が気付いていません。

イエス様も、お釈迦様も、
聖者と言われる方々は、
自由と平等を強く語ったことはありません。
それよりも大切なことがあるからです。
自由と平等というものは、
優先度の高いものではないということなのです。
そして、自由も平等も、無条件なものではないのです。
自由や平等を最重要にしてしまうと、
本来大切にすべきことを見失ってしまうのです。
ですから、唯物主義や共産主義においては、
自由と平等が大きく主張されます。

共助や慈愛があって、
自らの責任と義務を果たした上での
自由であり平等であるというのが本来の姿なのです。
「自分の自由だから構わないでしょう」
「平等なんだから良いでしょう」
「平等なんだから俺にもよこせ」
「自由なんだから俺にもさせろ」
そんな言葉を語る人たちが行うことの先にあるものの中に
社会悪と言われるような行為が並んでいたりするのです。

自由とは、何からの自由なのでしょうか、
平等とは、何に対する平等なのでしょうか、
その本質を問うとき、
実は、無条件な自由とか平等などは、
この世にはなく、また善でもあり得ないことが
見えてくるでしょう。

人は、ひとりひとりが異なる存在です。
異なる存在が、同じように振る舞うことなどあるでしょうか
そして、異なる存在が同じものに過ぎないなどあるでしょうか
人は、本質的に平等ではあり得ないのです。
そして、肉体という枷がある以上は自由でもないのです。
ひとりひとりが、それぞれに異なる価値をもった
異なる存在として、尊きものであるはずなのです。
なぜ、戦争がおこるのか、
それは自分たちと異なる存在を認めないが故ではないでしょうか、
そして自由に行ってはならないことがあるのを
忘れてしまっているからなのではないでしょうか
なぜ、殺人をするのか、
それは、相手の価値を認めることが出来ないからではないのでしょうか。
自分の自由しか考えていないからではないでしょうか。

自由と平等を語るものよりも、
義務と責任を語るものの方が信用できるでしょう。
義務と責任を語ることの出来ない政治家や教師は
価値の無い存在であると言えるでしょう。

まず、存在するがゆえに課せられているものを
しっかりと見据えることが必要ではないのでしょうか、
そこには自由もなければ平等もありません。
義務と責任と与えられた環境があるだけです。
でも、それがこの世に生を受けたものである証しであるわけです。

赤ん坊は、無知であり、本能に従ってだけしか動けません。
ある意味で自由であるといえるのかもしれませんね。
でも、大人が皆赤ん坊のようであったら、
社会は成立するでしょうか。
そう、成立などしないでしょう。
つまり、根源の自由というものは
そんなものでしかないということなのです。
赤ん坊は、親から学びます。
何を学ぶのか、それは生きる為のルールです。
つまり義務と責任ということです。
人が社会的な生き物であると言われるのは、
まさに、義務と責任の存在あってのことであると言えるでしょう。
すなわち、社会が平和であり、安心していられるのは
自由と平等よりも先に、
義務と責任があるからだということなのです。
義務と責任を果たした上で語られるべきものが
自由であり平等であるということなのです。

つまり、大切なことは、
どんな義務を自分は負っているのかであり
どんな責任を自分は持っているのかであると
いうことなのですね。
それを、まず認識することが重要であると言うことになるわけです。

自分が背負うべき義務は何であるのか
自分が果たすべき責任は何であるのか
それを語れるものこそ、真のリーダーと言えるべき
ものではないでしょうか。
それを語っている人は誰なのかを見極めることが、
リーダーを選ぶものに課せられていることではないでしょうか。
すなわち、政治家を選ぶときに本当に知るべきことは、
候補者が、どんな義務と責任を語れるのであるのかを
しっかりと見極めることにあると言えるのではないかと思います。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 19:17| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お釈迦様の教えについて

お釈迦様の教えについて

「対機説法」
お釈迦様は、説法をされる時、
機=法を説く相手のことを
見て、相手の年齢や人柄、
考え方、境遇、などの今世のこと
そして、その人の魂の成長レベルや
カルマ、前世、徳分の状態や内容まで
あらゆることを理解した上で
法を説かれていました。
つまり、お釈迦様の言葉は、
説いた相手に向かった言葉であったと
いうことになります。
したがって、その内容は、その相手の為のもの
ということであったわけです。
お釈迦様はご自身で何かを書き残すことは
なさっていません。
経典と言われるものは、
弟子たちによって残されたものです。
その内容は、弟子を観て語られたもので
あったということでもあるわけです。
その為に、経典毎で差異も生じることになります。
ある弟子に対する言葉と
違う弟子に対する言葉では、
同じ法を説くにあたっても、
その弟子が理解できりように説かれているので
別の者が、一見すると矛盾しているようにも思えることが
出てきてしまうこともあると言えるでしょう。
また、別のものがそれを聞いたら
間違った解釈や認識をしてしまうこともあると
言うことなのです。
つまり、残された経典を正しく認識するには
その経典を最初に残した弟子と同じレベルで
なければならないということになります。
そうでなければ、間違った認識をしてしまう
可能性があるということになるわけです。

だから、経典によっては、
読むにあたっては、読む資格が問われるものが
存在しているということになります。

もちろん、法のベースとなる部分は、
万人にもわかるように弟子たちによって
整理されて伝わっています。
従って、基本となるべき法については、
お釈迦様からの系譜であれば、ほぼ同じ内容のことを
伝えてくれています。
上座仏教、大乗仏教でも、変わらない部分はあるわけです。
しかし、法の教えの深さが変わってくると
伝わっている内容にも変化を生じる部分が出てきます。
それは、弟子から弟子へと伝わる中であったり、
国をこえ言葉が変わる翻訳にあたってであったり、
また、追加となる解釈の仕方であったり、
様々な要因で変化していきます。
西洋の視点で仏教を捉えて解釈された場合には、
西洋学術的な視野や視点の制約による変化もあります。
一神教と多神教の違いによる影響もあります。
日本への伝承においては、複数の経路から伝わっているゆえに
それぞれに異なる部分をもった形となっています。
また、それぞれの開祖と言われる高僧の学びと解釈からの
新しい教えとなっている部分も多くあります。
時の政治や権力との交わりの中で変化していった部分も
多くあります。
日本の仏教は、江戸時代の幕府による寺社管理により
大きく変質した部分があります。
そして、明治維新の廃仏毀釈によって、
大きく変質した部分があります。
どちらも、時の社会に迎合しすり寄る方向での変化でした。
したがって、その部分において、
本来の教えが喪失していったことは否めないといえるでしょう。
よく、宗教も変化しなければならないと言う方がいます。
しかし、変化するようであっては実は宗教の本質を
失っていくことでもあるのではないかと思います。
なぜなら、仏教であるならば、お釈迦様の教えを
変えることがあってはならないはずであり。
お釈迦様の教えは時空を超えた不変の真理であるはず
なのですから、それを変えることは、
もっとも重いカルマとなることを意味するからです。
もし、時代に合わなくなったと感じることがあれば、
それは、時代が誤った道を歩み始めていることを
意味しているということなのです。
つまり、本当にお釈迦様の教えを学ぶものであれば、
時代や社会に合わせるのではなく、
時代や社会を合わせるという方向に
行動するということになるのです。
従って、社会的には否定されることも多くなります。

お釈迦様の生誕は10万年前に預言されていたものであり、
テワダー界から選ばれた魂が、
選ばれた時と環境と条件のもとに
誕生されたわけです。
そして、大いなる悟りを成して、
ニッパンの高みへと昇華なされたわけです。
創造神を超えた存在となられたということです。

お釈迦様の教えを正しく学ぶには、どうすれば良いでしょう。
それは、お釈迦様の教えを正しく理解されている方より
学びを得るしかありません。
残念ながらこの世では、その様な方は稀です。
アンタルヤーミーと呼ばれるような方は、歴史の流れの中で
何人も出てきてはいらっしゃいません。
そして、学ぶにあたっては、学ぶための姿勢が問われます。
何でも学ぶことが出来るわけでもありません。
それぞれに必要な法、学べる法、学ぶべき法は
異なっているのです。
知るということは、知ったことに対して
責任を担うということでもあります。
お釈迦様であれば、相手を観て、
その相手がその責任を担えるような状態でないなら
まだ学ぶに早いとして教えることはないでしょう。
知るべきことを語って下さるはずです。

叡智を学ぶことは、善いことです。
その機会を得ることが出来たのであれば、
それを活かすことことが最も大切なことであると
言えるでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 18:26| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする