2018年02月10日

呟き・・・・・

呟きめもめも・・・・

世界の大きな課題に、家庭崩壊がある。
日本も同様であるといえるだろう。
あるべき夫婦の姿、あるべき家庭の姿、その理想を忘れてはならない。

世界は国からなり、
国は地域社会からなり、
地域社会は家庭からなり、
家庭は夫婦、親と子、兄弟姉妹からなる。

個人では社会は構成できない。
絆という人と人との繋がりがあってこその社会であるということ。

日本の大きな課題のひとつに、信仰心の欠如というテーマがある。
宗教、信仰の本質と大切さについて扱わなければ未来への展望はないのだが・・・

自由と平等は、サタンの愛するツールでもある。
その事実を認識できるか否かは、とても大切なことであったりする。

今の日本があるのは、先祖の皆さんのおかげ、
伝統とルーツが大切なのは、まさに今あることへの感謝のためであり
継承の中にある知恵の価値を知り、未来へと繋ぐためでもある。

真の叡智は、時の流れのなかや歴史の流れの中でも変わることはない。
永遠に不変であり不偏であり普遍である。
信仰は、その叡智の元にあるものでなければ惑うことになる。

性同一性障害という病は、カルマによる。
レズやホモやバイセクシャルは、
マゾやサドやロリコンなどと同様な嗜好でしかない。
異なるものを同列に語ることで過ちや罪を生み出している。

男性と女性という存在があって、
夫婦があり、子をなし家庭ができる。
その絆と時を繋ぐ連鎖こそが、自然の姿であり、
自然そのものの根本的な在り方であることを忘れてはならない。
あるべき姿を失うとき、
その先には不幸と破滅があるだけなのだから。

子供は、宝、得るものではなく、与えれれるもの。
育てるための責任と義務を与えられるのである。
それは、同時に喜びと愛の学びの場を得ることでもある。

子供にとっての理想は、父親と母親がそろっていること。
これは永遠に変わることのない理想のあるべき姿である。
そのことを政治も教育も社会も忘れてはならない。

神道、神への道、日本人は目に見えない存在を信じ共に生きてきた。
自然の中、動物の中、道具の中にも、その存在を感じ、
感謝をもって、大切に扱ってきた。その心を取り戻すべきだろう。

お釈迦様のもっとも基本となる
万人へ向けての教えと生きるべき道は
在家の五戒の中にある。
この五戒をどのレベルで守ことができ
実践し生活できるかが真の成長の違いとなる。

イエス様もお釈迦様も学ばれた神の叡智に、ヴェーダの叡智がある。
ただ、世に出ているヴェーダの叡智は、
この世で言えば幼稚園の教えレベルでしかない。
小学校に進級するには、信仰心と神の学びが必要になる。

パームリーフブックに残された叡智を学ぶことが出来る人は少ない。
それは、そこに記されたものが、
魂の成長の度合いによって知るべきでないことがあるため。
知るということは、
知ったことによる責任が生まれるということでもあるのだから。

「在家の五戒」不殺生戒(ふせっしょうかい)
- 生き物を殺してはいけない。
ベジタリアン生活をおくりましょう。

「在家の五戒」不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
- 他人のものを盗んではいけない。
泥棒はいけません。多分な欲望はよくありません。

「在家の五戒」不邪淫戒(ふじゃいんかい)
- 不道徳な性行為を行ってはならない。
モラルをまもって、自然にあるべきもの本来の姿を大切に
欲におぼれてはなりません。

「在家の五戒」不妄語戒(ふもうごかい)
- 嘘をついてはいけない。
言葉を大切に、神の法をまげてはいけません。

「在家の五戒」不飲酒戒(ふおんじゅかい)
- 酒を飲んではいけない。
禁酒しましょう。欲望に溺れてはいけません。

信仰的ベジタリアンの根源には、
神を悲しませないという子の愛と、
神の法を守るという基本と、
カルマをつくらないという成長のための歩みがある。

すべては、この天宙の姿と、
存在の形と法のもとに、
人の生きるべき目的と進むべき道の真理があってのものである。
禁酒であること、ベジタリアンであること、
善行をなすこと、為に生きること。
その目的の本質は等しく神の叡智の中にある。

目に見えない存在、異なる世界の存在、
現代科学では説明できない現象、
それを知ることのできる機会が、
「天の扉開き」。

多様性を認めようということがいわれる。
ところが、そう言いつつ自分たちのことだけを認めて、
他の人のことは認めないというケースが多かったりする。
権利への欲望を満たすための言葉に
なってしまっているのである。

お釈迦様の教えも、イエス様の教えも、
誰もが学び、誰もが理解し、誰もが実践できるわけではない。
魂の成長段階によって学び取れるものは当然違っている。
また理解できるものも異なっている。
反抗期の子供たちも暖かい目で見守ってあげなければならないのだ。

神も、お釈迦様も、イエス様も、教えを授け、チャンスを与えては下さる。
しかし、その与えられたものを活かすか否かは、
与えられた人の責任でしかない。
信じるも信じないも、実行するもしないも、
与えられた人の選択しだい。

神も、お釈迦様も、イエス様も、
人に無理強いをすることはない。
なぜならどの道を選びどんな人生をおくるのかは、
その人、本人の問題であるから。
ただ、選択したら責任を負うことにはなる。

自分の目で見て確認したことであっても、
信じることの出来ない人もいる。
自分の目で見なくても信じることの出来る人もいる。
それは、人それぞれ霊性のレベルも
魂の成長も異なるのだから当然のことでしかない。

為に生きる。簡単なようで難しい。
自分の為なら簡単でも、他人の為だと難しい。
自分とのかかわりや絆の違いによって、
より難しくなっていく。
ただ、難しいことほど、得られるものも大きい。

霊性修行の人生の中で、何を得るのか、
縁を大事に、絆を大事に、
神の叡智を得られる機会を逃さないでいられるのか、
それは心情と動機しだい。

対機説法 お釈迦様も、イエス様も、
相手をみて、その人にとって必要なことを
教え授けてくださっていました。
神の叡智であっても、
相手に理解できるもの、理解できる表現、
相手ができること、しなければならないことを
見極めて語られているのです。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 19:02| 静岡 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする