2019年06月08日

個の為に生きることの本質と個人主義のあるべき姿

個の為に生きることの本質と個人主義のあるべき姿

個人主義というのは、いくつかの立場があり、
異なる意味合いをもって語られている部分もある
個人を大事にするということは間違っていない
しかし、個人を大事にするがゆえに、
他人を害するのは善いことであるとは言えない。
個人主義を正義の主張として叫ぶ人の多くが、
何よりも個が大事であって、他が阻害されても
構わないのだっという風潮が見受けられる。
個人の自由という言葉は、多くの場合、
ワガママや独善的、傲慢、っといったものの
隠れ蓑として使用されている。

個人主義(individualism、individualisme)は、
国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重することを主張する立場、
共同体や国家、民族、家の重要性の根拠を個人の尊厳に求め、
その権利と義務の発生原理を説く思想であり、
テン語のindividuus(不可分なもの)に由来している。
対語としては、全体主義、集団主義、集産主義などがある。
西洋は個人主義的で、個人主義の概念は西洋文化にありといわれる。
個人主義と「利己主義」は同一ではないが、しばしば同意的に語られている。
個人主義は個人の自立独行、私生活の保全、平等、所有、権利を主張する。
19世紀から20世紀にかけてのアメリカで社会的な理想のようなものとして
語られるようになっていく、
個人主義は非常に多義的で多くの観念が結びついている
社会学的、方法論的、政治的、経済的、宗教的、倫理的、認識論的など、
様々な論点が存在している。
人間がひとりひとり個性をもった自立したものであり、
尊厳をもった存在であることは間違いない。
ただし、個人のもつ自由や権利は、必ずしも絶対的なものとはいえない。
「天上天下唯我独尊」という言葉は、
個人の存在は、この世界の中で唯一のものであること
それゆえに価値があり、尊厳をもって扱われなければならないという
普遍的な事実を語ったものである。
個人主義の中から生まれてくる主義主張は様々である。
個人の利益・欲としての幸福だけが道徳の規準になるとしたものが
エゴイズム・利己主義であり、
幸福がもっぱら自己の快楽であるしたものが
快楽主義・享楽主義である。
その一方で、自身の自由と権利を尊重するのと同様に
他人の自由と権利を尊重することを個人主義と表現する考え方もある、

個人を大事にするというとき、
まず、第一に自分自身を大事にするということが
求められる。その次は、両親であり、兄弟姉妹であり、家族親族と
なっていく。社会や国家を構成する最小単位は、個人である。
集団主義や全体主義に対立するものとして
個人主義が語られることがある。
それは前者が個人よりも集団を優先する立場であるという視点から
対比されるものであり、本来は対立すべきものではない。
個人があって、夫婦があり、親子があり、兄弟姉妹があり、
親族があり、地域社会があり、国家がある。
個人の存在がすべての基本であることは間違いなく
この世も、個人をベースにした絆と繋がりによって
構成されていき、維持されている。
この世をより善きものにしていくためには、
個の人格形成は不可欠であり、
そして、その次に大事なものは、もっとも最小単位の集団である
夫婦のあり方であるといえる。
この世での幸せを追求するならば、個人の次に考えるべきは
夫婦ということになるのは必然であり、
夫婦の次に考えるべきは親子と家庭ということになる。
この世の理想、あるべき姿を説くならば、
個人の形成の次に家庭の形成が語られるべきであり、
親子、家族の形成が語られるべきであろう。
この世で、より過ごしやすく、幸福な環境を成すことは
霊性修行を行う環境を整えることにも繋がるので悪いことではない。
ただ、輪廻転生の輪から抜け出すことは出来ない。
苦の連鎖から脱することは出来ない。
解脱するのは、個々の魂であり、個人個人である。
つまり、霊性修行による成長は、個人の成すべきことであり
魂の成長は、その魂にしか出来ないことである。

個人主義の本質とは、存在するのは魂であり、
魂は、個々、ひとつひとつ異なる存在であり、
それぞれに尊厳をもって扱われるものであるということ
そして、魂の成長は、ひとりひとり、自分自身にしか
出来ないことであって、他人や他の魂が関与できるものではないと
いうことなのである。
神や仏も、魂の成長に直接は関与することは出来ないし、
神や仏も、成長するためには、自ら自身で学ぶことが必要になる
それが、本質的な個人主義の根源であり、
この宇宙の真理であるということである。

個人主義の本質は、魂の存在と、霊性修行の成すべきことを
示すものであるはずなのだが、
それを隠そうとする存在もまたこの世にはある。
サタンやバッドスピリッツなどの存在である。
それらは、自由、権利、平等という言葉で、
人の欲望を掻き立てるように誘導していく。
この世の幸福を、この世の欲望を追い求めるように
言葉巧みに誘いをかけてくる。
たしかに、この世が平和であること、社会は平和であり
多くの人が幸せを感じることは悪いことではない。
しかし、それらは刹那的なものでしかないことも事実である。
本当の道は、解脱のための悟りを得るための道であり、
それは、それぞれ個人の魂が、それぞれの立場で、
カルマ解消をし徳分を積み、霊性修行をしていく道であり
他の人も、神様も、関与することの出来ない真理と原理が
存在しているのである。
個人主義は、本来、解脱への道を示すものであるべき
であるといえるだろう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 13:43| 静岡 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一神教と信仰と今世での意味・・・・

一神教と言われる宗教は、世界の大きなエリアを占めています。
しかし、その教えの源泉は、同じものであったりもしています。
一神教といえば、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つであると
言って良いでしょう。
共通の聖典として、聖書があります。
もっとも古いユダヤ教から、
もっとも新しいイスラム教まで、
一神教は、ナイル、チグリスユーフラテスの大河文化圏を
中心にして、広がっていったものであるといえるでしょう。
もともと、そこにあった多神教の中から出てきたものでもあります。
神話として伝承の残る信仰は、基本的に多神教です。
神々と人々との関係、神々のお話などが神話となっているからです。
一神教は、天地創造から始まります。
一神教の神は、創造神であるということです。
ユダヤ教において、聖書は最初に編纂されます。

紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群で
全24巻から成り立ち、
律法(トーラー : Torah)、
預言者(ネビイーム : Nevi'im)、
諸書(ケトゥビーム : Ketuvim)
に分類されていて、
タナハ (Tanakh ヘブル語)と呼ばれているものです。
律法(モーセ五書)を中心にして、
預言書(神からの啓示である預言の記述)、
歴史書、諸書(詩、知恵文学)などから構成されています。
キリスト教においては、旧約聖書として位置付けられています。
現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本にあり、
紀元前4世紀頃からギリシア語訳が作られるようになっています。
(アレクサンドリアで編纂された七十人訳聖書など)
キリスト教では、旧約聖書に、イエスキリストの言葉や奇蹟を
弟子たちがキリストの死後書いたものを編纂して、新約聖書としています。
「約」とは、神との契約のことで、2世紀頃からキリスト教徒の間で
呼ばれ始めたものです。
新約聖書は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって
書かれたものであり、
福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、
言行録、使徒言行録、書簡(パウロ書簡・公同書簡)、
黙示録、外典、から構成されています。
アラム語(または、ヘブライ語る)と、
「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で
公用的に使用されていた口語的なギリシア語で書かれて、
早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されています。
英訳版としては、1611年に出版された
キング・ジェームス・バイブルがもっともよく知られています。
聖書は、イスラム教においても、アラビヤ語に翻訳されて
モーゼ五書「タウラー」、詩篇「ザブール」、
福音書「インジール」と呼ばれ、教典として
クルアーンに準じるものとして扱われています。
イスラム教では、西暦610年頃にムハマドのところに、
大天使ジブリール(ガブリエル)が現れて、
与えら得れた啓示の内容が口伝で伝えられ、
初代から3代の正統カリフのもとで編纂され正典化されています。
その後に、キリスト教、イスラム教は、分派していきます。
その様な中で、新たに聖典として編纂されたものもあります。
それぞれに、聖なるものであることは当然ですが、
基本となる本流の聖典は、聖書とクルアーンであると
いえるでしょう。

一神教系の教えの中には、聖霊の叡智と呼ばれるものがあります。
モーセ、ダビデ、ソロモンが使った奇跡と呼ばれた力に関するものです。
一神教は、この世における幸せについて求めるものが中心となっています。
理想の国は、あくまでもこの世の国です。
天上の天国と同じものを地上にという欲求に留まっているともいえます。
したがって、この世的な幸福を求めるために必要な教えが
多く語られています。また秘法として伝えたれているノウハウも
この世において役に立つものが多かったりします。
まず神を信じ、この世ではない天上世界があることを信じること
そして、幸せになるためにどうすれば良いのかについて
この世のレベルでの視野から、まずは学んでいくという感じの教えと
いってよいのではないでしょうか。
しかし、それゆえに、悪魔やバッドスピリッツの影響も受けやすく
同じ神を信じるはずのもの同士が争うという歴史を繰り返すことに
なってしまっています。
この世界を平和に、より生きやすく、安心していられるものとするために
為すべきことは何なのかを、伝える信仰であるともいえるでしょう。
憎しみをこえ、兄弟姉妹の絆を再認識するために、
同じ神のもとで、争いを無くしていくという目的を為すために
存在しているのだともいえるでしょう。
創造神がもっとも上の教えであることから、
神の叡智としては、教えられていないことも数多く存在しています。
創造神が学びたいと願う教えが、伝えられていないのは、
仕方のないことだといえるでしょう。
しかし、神を信じない、この世以外の世界があることを信じない、
そういったレベルの人々、唯物主義や共産主義といったレベルより
上のレベルであることも間違いありません。

病気などの原因のひとつに、悪魔やバッドスピリッツ、
バッドエナジーによるものがあります。
それらを取り除くことは、とても大事なことです。
そのための叡智が、聖霊の叡智として伝えられています。
オラシオン、シール、などがそうです。
その叡智を使いこなすのがエクソシストであり、
心霊手術などを行なうヒーラーであるわけです。

さて、天上世界は、創造神の皆さんだけがいらっしゃるわけではありません。
しかし、複数の神々の存在を信じることよりも、
唯一神を信じることの方が、霊性レベルは高い必要がありません。
魂の成長のレベルによって、カルマや徳分の状態によって、
唯一神すら信じることが出来ない人々もいれば、
唯一神なら信じることが出来る人々もいるということなのです。
では、神々を信じることが出来るのであれば、
この世の存在理由と、人がなぜこの世界に生まれたのか、
そして、死後、どうなるのか、その部分について、より深く
啓示され、叡智が存在しているものに接したときに
信じられる人と信じられない人がいるのも当然のことであるわけです。
それは、悪いことでもなければ、非難すべきことでもありません。
ただ、今世における定めとして、そうなっているだけということです。

黒人の世界が自然信仰中心であり、
白人の世界が一神教中心であり、
アジアでは多神教が中心であるのも、
それなりの理由があるからだといえるでしょう。
その事について、一神教は触れられてはいません。
民族部族という単位で語られる内容が中心だからともいえます。
一神教も、アジアへと流れるなかで、
より多神教の教えに近づいていっています。
また、一神教から多神教の中に叡智に触れるチャンスも
多くなっていっています。
より深い叡智に触れることが出来る縁が、
強くなっていくからだともいえるでしょう。

宗教の役割は、まず、この世が、現世のみではないこと
神様の世界、死後の世界が存在していること
スピリチュアルな存在が実存していることを
知らしめることにあるといえます。
その上で、この世における人生をどう生きるのが
善い生き方になるのか、あの世にいったときに後悔せずに
すむのかといったことを伝えているといえるでしょう。
この世の叡智では説明できない事象や現象について
聖霊の叡智や神の叡智を通して説明したりもしています。
それぞれの段階に応じた叡智が与えられていると
いえるでしょう。
そして、もっとも深い叡智が、
プラプッタジャウによるダルマであるわけです。

どの宗教が悪いとか良いとかなどはなく、
どの宗教が駄目だとか優れているとかでもありません。
それぞれの宗教、信仰は尊ばれるべきであり
敬意をもって接するべきものであるといえます。
それぞれの宗教や信仰には、それぞれに役割があり
導くべきレベルの魂が存在しているのです。
もちろん、より深い叡智に出会えて、
それを学ぶ事ができれば素敵ですし、
解脱への悟りを得ることも出来るでしょう。
それゆえ、縁を大事にして、チャンスを逃さないように
することが大切ということにもなってきます。

信仰を持つことは、人生をより深く意義あるものにするための
第一歩であるといえるでしょう。
信仰を持てない人は可哀想です。
カルマを増やし、徳分を減らすだけの人生に
なってしまったら、来世は悲惨なことになってしまうのですから。
そして、どんな信仰であっても、敬意をもって接するべきでしょう。
敬意をもたず卑下したり馬鹿にしたりするのは
カルマにしかなりません。

そして、出来うるなら、ダルマの教えを学び、
輪廻の輪から抜け出して、苦の世界から脱することが
出来る道を歩めることがもっとも恵まれた道であると
いえるでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 07:41| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする