2010年12月27日

ウェンディの夢は・・・・・

 12月27日は、1904年、明治37年に、
イギリスにて、劇作家ジェームス・バリーの創作した
童話劇「ピーターパン」が、初上演された日だということで
「ピーターパンの日」だそうです。
 いつまでも、子どものままの姿でいるピーターパン、
そんな彼に、出会い、憧れをもって接した少女が
ウェンディです。ロンドン郊外に住んでいた彼女は、
ピーターパンと一緒に、ネバーランドにいって、
いろんな経験をして、結局は、成長していってしまうことに
なるわけです。
 ネバーランドから戻ってきたとき、
ウェンディは、ネバーランドに行く前よりも
間違いなく成長していたことでしょう。
そして、新しい夢を抱くようになったのではないでしょうか。

 人は、いつまでも子供のままではいられません。
しかし、人は誰でも、子どもであったのです。
大人になったとき、子どもの頃のことを忘れてしまうと
子どものために何をすべきか、何が必要なのかを
見間違ってしまうことがあったりします。
ようは、大人の都合で物事を考えて、それを子どもに
押し付けてしまうことになるわけです。
教育の現場で、その様なことがよく発生しています。
多くの教育現場の問題は、大人の都合で何かをしたり、
大人が楽をするために何かをしていることが原因である
のではないかと感じます。
 子どもの視点に立って考えたとき、
躾の重要さや、規則を守ることの大切さなどは、
ごく当然のことであるとわかるはずなのですが、
なぜか、徳育が置き去りにされて、
知育ばかりに力がいれられてしまうようです。
まさに大人の都合であるといえるでしょう。
義務教育で外国語を学ぶ必要など本来あるのでしょうか?
外国語は、必要になったときに必要な外国語を学べばよいのであって
義務教育で時間を多くつかうものではないはずなのに
大人の都合で、アメリカ従属の象徴として行われているわけです。
子どもにとっては、まず母国語をしっかりと学び、
読み書きそろばんの基礎と、社会生活のなかで必要なモラルや
慣習などの徳について学ぶべきであるといえるでしょう。
義務教育改革は、まず英語をなくすことから始めるべきなのかも
しれません。
 国語や日本の歴史、日本の社会のことをもっと多く学び
地域の歴史や史跡や文化について深く学ぶことこそが
義務教育の現場で必要とされていることであるといえるでしょう。
日本人として、きちんとした学びをせずに
国際人になれるはずかないということに
なぜか気が付かない大人がいるということが残念でなりません。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:03| 静岡 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっていれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしがなりたたない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境がととのはないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。

「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

Posted by noga at 2010年12月28日 10:43
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