2015年04月28日

仏教について考えてみる

仏教について、どの様な宗教なのかといえば、
なかなか一言では言いきれないほど拡散拡大しているのが
現実であると言えるでしょう。
狭義の意味では、お釈迦様の教えだと言えるわけですが、
この部分を深く学ぶのは出家する以外には難しいと言えます。
また、日本には深い部分は伝承しておらず、
タイなどの高僧に弟子入りして学ぶか、そのレベルの方に教えを請うしかありません。

メルマガ「仏教に学ぶ生きる意味 by 中村僚(長南瑞生)氏」の中で
ある質問に対するひとつの答えを提示されていました。
その質問とは、
「仏教にはたくさんのお経や宗派があるけど、
 結局、お釈迦さまの説かれた本当の仏教というのは何なの?」
です。
すなわち、お釈迦様の教えとは何かということです。
今、広く一般に広まっている仏教は、お釈迦様の弟子たちの教えです。
弟子も、玄孫弟子よりも後の皆さんのものが大半であると言えるでしょう。
先のメルマガの中では、現代日本仏教を2つに大別されていました。
「西洋系の研究(近代仏教学)」と
「東洋系の研究(伝統教学)」です。
しかし、そのどちらも、学問のレベルでしかなく本質を伝えられていないということです。
奈良仏教、鎌倉仏教の時代の高僧の残された経典からの教えの中で、
お釈迦様の教えに触れることが出来るとされていました。
しかし、実は、それも、本当の意味ではお釈迦様の教えではなかったりします。
お釈迦様の教えでなければ、仏教ではないのかといえば、
そうではありません。
そもそも、お釈迦様は仏教徒ではありません。
ジャイナに学んだヒンドューであるわけですから。
日本への仏教伝来は、
まず、ヒンドューと混じり合い大衆向けに上澄みをとった
大乗仏教という流れのなかで存在しているものです。
大乗仏教そのものが、本来の深いお釈迦様の教えが難しくて
多くの大衆に理解できないということから、
お釈迦様の弟子たちの一派により、やさしく説きなおされて
変化したものをベースにしているのですから、
その時点で、お釈迦様の教えそのものではなくなっているのです。
それでも、そのルーツはお釈迦様の教えですから、
お釈迦様の教えだとも言えることは間違いはありません。
中国に流れたときに、まずマントラ類については、
表音文字から表意文字への写されていったなかで、
もともとの意味ではない、表意文字の意味を解釈するという
教えの変化が発生してしまいました。
代表的なものに、般若心経がありますね。
もちろん、天竺にまで言って、直接学び、その学びを伝えている内容もあります。
しかし、中国では、儒教や道教などの教えと混ざり合う部分もあったりして
大乗仏教は更に変化していきます。
その状態で、中国から、日本に伝来してきたのが
日本の仏教のルーツとなっているわけです。
日本の仏教は、お釈迦様の教えそのものからは、かなり世代の経た、
弟子の考えや儒教や道教などの中国の宗教の影響などを含んだものと
なってしまっているわけです。
もちろん、お釈迦様の教えがルーツであることは確かなことですが
狭義の意味では、お釈迦様の教えそのものとは言い難いものとなっているのも事実であると言えるでしょう。
しかし、そうだからといって、その教えの価値は、衰えるものではありません。
少なくとも、お釈迦様を尊敬し敬愛するという教えであるという点において、
素晴らしいものであるということは、間違いなく、
それは、とても価値のあることですから。
メルマガのなかで、日本化したお釈迦様の教えについて
詳しくまとめられたサイトが紹介されていました。

お釈迦さまはどう教えておられるの?
http://xn--vuqrjl75e.com/40zoma.html
インドの龍樹菩薩は?
http://xn--vuqrjl75e.com/24shokangiji.html
中国の道綽禅師は?
http://xn--vuqrjl75e.com/38doshaku.html

日本伝来仏教の教えを学ぶことは、
学ばないより、人生において、
それだけでも価値あることだと言えるでしょう。

お釈迦様の教えという視点では、初心者向けな内容ということになるでしょう。
大乗仏教そのものが、初心者向けの教えであるのですから仕方ないとは言えます。
私も、もしお釈迦様の教えの学校があったら幼稚園児のレベルでしかありませんから。
日本の高僧の皆さんも、小学校といったところなのかもしれません。
テワダーとなった方がいらっしゃるということは聞いてませんし。
大乗仏教のルーツが、そのレベルですから、それ以上に至ることは難しいということになります。
大乗仏教のように大衆へ教えを広めるのではなく、
出家修行僧というレベル以上を対象に伝えていく方向であったのが
上座仏教という流れとなります。
当然、学びは、より深いものとなるわけです。
主に南東アジアへ伝承されていて、今日に至っています。
お釈迦様の生涯についての伝承についても、
大乗仏教では、かなり略され、しかも、中国経由するなかで変遷し、
日本に伝わり、日本でも歴史の流れのなかで変遷していっています。
手塚治虫先生のブッタの話も、お釈迦様以外の方の逸話が混じっていたりする
変遷した結果のお話がベースとなっているので、大筋においては間違いなくとも
本質的なところでは、違っていたりするということになってます。
上座仏教圏の方が、変遷をあまりせずに伝えられているのは確かなことです。
非常によく、まとまっているものとして、
以下のアニメーションがあります。
http://youtu.be/iE8PBr8coUQ
それでも、若干の誤りがあるということです。
お釈迦様の本当に深い部分の教えは、弟子から弟子へと直接に伝えられているものでしかなく、
それを学ぶ資格のあるものしか触れることの出来ないものであるといえるでしょう。
それは、多くの聖者の教えにも同じことが言えます。
直接の系譜の学びをされた方から学ぶことが出来ても、
それを理解できるか否かは別の次元の問題であるからです。
伝聞を重ねていくと、体感は失われていきます。
文字の伝承には、限界があるということなのです。
口伝と体感による伝承がなければ、本当の意味での深い部分の伝承はあり得ないということです。
これは、宗教という世界だけでなく、匠といわれる世界においても同様ですね。
本当に学ぶということは、体感することが必要であるということです。
ゆえに、お釈迦様の教えを、その神髄を知るには出家するしかありません。
私のように、その叡智を文章や言葉で学ぶだけでは、その神髄を知ることは出来ないのです。
ただし、神髄を知り得なくとも、神髄がどんなものなのかを、
おぼろげながらも知的に捉えることは、その神髄を知る人から直接学ぶことで可能であるのかなと感じています。
しかし、その様な出会いに恵まれるか否かは、
人生の運命次第ということになるのかもしれません。
輪廻転生の輪のなかで、魂の成長を紡ぐ流れのなかにあって
どれだけ、戒を守り、律に従う生活を送ることが出来たのか、
その差はカルマの差ともなり、魂成長の差ともなるということです。

学ぶにあたり、もっとも重要なことは謙虚になること。
自分の方が優れているという気持ちをもったら、
それは傲慢につながるということなのです。
霊性が高まれば高まるほど、謙虚で落ち着きある人へと成っていく
それが、悟りへのステップでもあるということですね。
私も、まだまだ、幼い魂であるなと、感じています。
残りの人生を、如何に生きていくのか、
よく学び、よく考えて、歩むことが大切なのだと感じます。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 04:27| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・文明・学術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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