2016年02月08日

お釈迦様の教えについて

お釈迦様の教えについて

「対機説法」
お釈迦様は、説法をされる時、
機=法を説く相手のことを
見て、相手の年齢や人柄、
考え方、境遇、などの今世のこと
そして、その人の魂の成長レベルや
カルマ、前世、徳分の状態や内容まで
あらゆることを理解した上で
法を説かれていました。
つまり、お釈迦様の言葉は、
説いた相手に向かった言葉であったと
いうことになります。
したがって、その内容は、その相手の為のもの
ということであったわけです。
お釈迦様はご自身で何かを書き残すことは
なさっていません。
経典と言われるものは、
弟子たちによって残されたものです。
その内容は、弟子を観て語られたもので
あったということでもあるわけです。
その為に、経典毎で差異も生じることになります。
ある弟子に対する言葉と
違う弟子に対する言葉では、
同じ法を説くにあたっても、
その弟子が理解できりように説かれているので
別の者が、一見すると矛盾しているようにも思えることが
出てきてしまうこともあると言えるでしょう。
また、別のものがそれを聞いたら
間違った解釈や認識をしてしまうこともあると
言うことなのです。
つまり、残された経典を正しく認識するには
その経典を最初に残した弟子と同じレベルで
なければならないということになります。
そうでなければ、間違った認識をしてしまう
可能性があるということになるわけです。

だから、経典によっては、
読むにあたっては、読む資格が問われるものが
存在しているということになります。

もちろん、法のベースとなる部分は、
万人にもわかるように弟子たちによって
整理されて伝わっています。
従って、基本となるべき法については、
お釈迦様からの系譜であれば、ほぼ同じ内容のことを
伝えてくれています。
上座仏教、大乗仏教でも、変わらない部分はあるわけです。
しかし、法の教えの深さが変わってくると
伝わっている内容にも変化を生じる部分が出てきます。
それは、弟子から弟子へと伝わる中であったり、
国をこえ言葉が変わる翻訳にあたってであったり、
また、追加となる解釈の仕方であったり、
様々な要因で変化していきます。
西洋の視点で仏教を捉えて解釈された場合には、
西洋学術的な視野や視点の制約による変化もあります。
一神教と多神教の違いによる影響もあります。
日本への伝承においては、複数の経路から伝わっているゆえに
それぞれに異なる部分をもった形となっています。
また、それぞれの開祖と言われる高僧の学びと解釈からの
新しい教えとなっている部分も多くあります。
時の政治や権力との交わりの中で変化していった部分も
多くあります。
日本の仏教は、江戸時代の幕府による寺社管理により
大きく変質した部分があります。
そして、明治維新の廃仏毀釈によって、
大きく変質した部分があります。
どちらも、時の社会に迎合しすり寄る方向での変化でした。
したがって、その部分において、
本来の教えが喪失していったことは否めないといえるでしょう。
よく、宗教も変化しなければならないと言う方がいます。
しかし、変化するようであっては実は宗教の本質を
失っていくことでもあるのではないかと思います。
なぜなら、仏教であるならば、お釈迦様の教えを
変えることがあってはならないはずであり。
お釈迦様の教えは時空を超えた不変の真理であるはず
なのですから、それを変えることは、
もっとも重いカルマとなることを意味するからです。
もし、時代に合わなくなったと感じることがあれば、
それは、時代が誤った道を歩み始めていることを
意味しているということなのです。
つまり、本当にお釈迦様の教えを学ぶものであれば、
時代や社会に合わせるのではなく、
時代や社会を合わせるという方向に
行動するということになるのです。
従って、社会的には否定されることも多くなります。

お釈迦様の生誕は10万年前に預言されていたものであり、
テワダー界から選ばれた魂が、
選ばれた時と環境と条件のもとに
誕生されたわけです。
そして、大いなる悟りを成して、
ニッパンの高みへと昇華なされたわけです。
創造神を超えた存在となられたということです。

お釈迦様の教えを正しく学ぶには、どうすれば良いでしょう。
それは、お釈迦様の教えを正しく理解されている方より
学びを得るしかありません。
残念ながらこの世では、その様な方は稀です。
アンタルヤーミーと呼ばれるような方は、歴史の流れの中で
何人も出てきてはいらっしゃいません。
そして、学ぶにあたっては、学ぶための姿勢が問われます。
何でも学ぶことが出来るわけでもありません。
それぞれに必要な法、学べる法、学ぶべき法は
異なっているのです。
知るということは、知ったことに対して
責任を担うということでもあります。
お釈迦様であれば、相手を観て、
その相手がその責任を担えるような状態でないなら
まだ学ぶに早いとして教えることはないでしょう。
知るべきことを語って下さるはずです。

叡智を学ぶことは、善いことです。
その機会を得ることが出来たのであれば、
それを活かすことことが最も大切なことであると
言えるでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 18:26| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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