2016年05月15日

目に見えないものを信じるということ

「目に見えないものを信じるということ」
 〜信仰の価値と信仰への誘い〜


「お天道様がみているよ」
「天罰が下るよ」
「雷様がお臍をとりにくるよ」

 日本人が幼いころにきかされる言葉には
目に見えないものの存在が語られているものです。

目に見えないものの存在を信じるか否か、
それは、まさに信仰に関わる部分であると言えるでしょう。
宗教の根源は、まさに信じるか否かにあるのです。
神様の存在、仏様の存在を信じるかどうかということなわけです。

もし、あなたが、神様や仏様を信じているなら、
無宗教ではないということでもあります。
何らかの信仰を持っているということになるからです。
世界において、無宗教と言えば、無神論者か唯物論者だと
認識されてしまうのが一般的であると言えるでしょう。
ところが、多くの日本人には、そんな感覚がありません。
戦後の教育の失敗が、安易に無宗教という言葉を
選ばせていると言えるのではないのかと感じます。

もし、あなたが無宗教だと言いながら、
神社にお参りし、仏様に手を合わせているのであれば
きっと、偽善者であると思われてしまうでしょう。
国際社会で活躍したいのであれば、
きちんとした宗教観をもっておくことが大切です。
お墓参りをするのがお寺であるなら、
無宗教と言わずに、仏教ですと言えますし、
神棚があって、葬儀を神式で行うのであれば
神道ですと言っておくのが良いでしょう。
もちろん、自分は神も仏も信じない、無神論者である
唯物論者であるというのであれば、
無宗教と言って良いのは当然です。
しかし、多くの国では信頼されないことでしょう。
表向きはきちんと対応してくれるでしょうけど
本音の部分では、一歩距離を置かれてしまっているということです。
何故なら信仰なきものは簡単に裏切るだろうと思われてしまうからです。
お金の切れ目や利益の切れ目が縁の切れ目となる人だと
義理や恩など無関係な人であるのだろうと思われてしまうのだと
言えるでしょう。
ビジネスライクでは付き合えるとしても
そこから先は無理であるという印象を持たれるということなのです。
過去の歴史が物語る無宗教、共産主義の世界で行われた
粛清や裏切りの数々が、信用出来ないという心情を
つくってきたとも言えるかと思います。

人は弱いものです。
欲望に流され、道徳を忘れて、過ちを犯してしまうことがあるのです。
その過ちを出来るだけ犯さないようにしてくれるもの
それが、信仰であると言えるでしょう。

目に見えない存在を信じるのであれば、
他人が見ていなくとも、見られているのだと思えるのです。
そして、人は、誰かに見られているという環境においては
理性が働きやすくなるものなのです。

信仰の価値とは、まさに人を理性的にすることにあると言えます。
そして、そのことが、平和の礎ともなるのです。
宗教と言われるとちょっと引き気味になってしまうのであれば
まず、目に見えない存在が確かにいるのだということを
信じてみることから始めてみれば良いでしょう。
それが、信仰への第一歩となることでしょう。
より崇高なもの、より愛することの出来るもの
そんな存在を信じているとき、
人は、その存在に対して畏敬の念を持ち、
裏切ることは出来ないという思いを持つことが出来るのです。
そして、その事が理性的な行動を促すことに
繋がっていくのだと言えるでしょう。

神様でも仏様でも御先祖様でも良いのです。
幽霊でも妖怪でも宇宙人でも良いのです。
目に見えない存在、人ではないけれども人の様な存在、
人以上の存在が、確かにいるのだと信じてみることが
人生をより深く、より充実したものにしていくことへと
繋がっていくのだと言えるでしょう。

信じられないのであれば、
それらの存在と出会うことの出来るように
ちょっと行動してみては如何でしょうか。
まずは、出会ったことのある人の話を聞いてみることでも
良いと思います。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 13:45| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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