2017年12月07日

食の禁忌と生きる目的〜昔のメールをふりかえって

昔、ホリスティック医学協会の総会に参加したときに
以前に、生活習慣病予防士の講座でご一緒した皆さんとの
やりとりの中で、私が書いていたメールの内容を
ちょっと見かけたので、
あらためて読み直してみました。
今も、課題への認識は変わっていないと言えるでしょう。

より多くの人が、目覚めることが出来るように、
禁酒、禁煙、ベジタリアンのITコーディネータとして
コンテンツアナリスト、サイエンスアナリストとして
ベジタリアンアドヴァイザーとして
出来ることを、行っていきたいと思います。

以下、メールの内容からのCOPYです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
私の個人的な感覚について、綴ってみます。

死生観については、
戦後に、失ってしまった日本人の宗教観とも
関係してくることだなと感じています。

海外においては、宗教は社会にとけ込んだ自然のものです。
日本は、戦前においては、心も含んだ密接な関係にありました
しかし、前後の教育の中で、宗教心はつみ取られていって
形式的な行事だけが残っていったという感じがします。
伝統的な行事のなかの心を取りもどしていくことが
必要なのかもしれません。

食文化という面でも、日本はおかしくなってしまいました。
海外では、宗教と食文化も密接に関連しています。
国際便の機内食では、宗教にあわせた食事が
選択できるようになっているのが常識であったりします。

よく、宗教について、無宗教という人がいますが、
海外では、無宗教=唯物主義者=共産主義者という
イメージが定着しているようです。
そのあたりの感覚も、ちょっと変なのが今の日本なのかなと
感じたりします。
お宮参りをして、初詣にいく人が、
無宗教というのは、矛盾しているのですけどね。

日本の宗教は、仏教と神道が基本であることは
間違いないと言えるでしょう。
でも、どちらも誤った道を歩んでいるところもあったりします。
それは、戦後の占領政策とも関連しているといえるでしょう。
例えば、仏教では、肉食を禁じています。
ところが、戦後に、それを許容するようなおふれが
出回ったのです。
その結果、仏教のお寺のお坊さんなのに、
ベジタリアンでないというおかしな人が出てきてしまいました。
675年、天武天皇は、肉食禁止令を出して、
牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならないとしています。
聖徳太子の活躍した時代の日本人は、完全なベジタリアンであったのです。
その後も、仏教の出家信者はベジタリアンでした。
また在家信者も、ベジタリアンに近い食生活を行っていたのです。
そんな歴史の流れのなかで、日本人の遺伝子は
築き上げられてきたのです。
戦後の100年足らずの期間に、急変した食生活に
日本人の体が対応できるはずもありません。
まさに、その弊害が、病気となって出てきていると
いえるのかもしれません。
特に、心の病への影響は大きいように感じます。

精進料理に代表される日本の食のあり方、
米とみそ汁とおつけ物が基本の食文化を
取りもどすことが、食の安全や食の自給といった面からも
必要とされてきていると思います。

死生観も宗教も食生活も、それぞれの価値観の上で
選択すべきことです。
そして、その選択は、その人が自分自身の責任で
行ったことです。
その人の価値観を受け入れてこそ、
良きコミュニケーションがとれるのであって、
否定すべきことがあってはならないし、
強制されることがあってもならないものです。
でも、多様な価値観や考え方を紹介すること、
触れてみることは、良いことかなと思っています。

ちなみに、私は、今年、
ラクトベジタリアンになりました。
それを機会に、日本ベジタリアン協会の
http://www.jpvs.org/
会員にもなったりしています。
ベジタリアンになった理由は、ある人との出会いが
あったからです。その人から得たことが、
私の魂に響いたという感じでしょうか。
禁酒禁煙・乳菜食。といった感じで、
日々をおくってます。
でも、お釈迦様もイエス様も生涯を通して
禁酒ベジタリアンであったのですから
良きことは先人に習うのもまた人生でしょうか。
(良くお釈迦様も肉を食べたとか、
誤った認識をされている方がいますが、
自分に都合のよい解釈をすることは信仰ではないの
ですけど、残念です)
私の家の菩提寺は、曹洞宗のお寺です。
曹洞宗の開祖、道元禅師は、精進料理を深める
先駆けとなった人でもあったりします。
今も、永平寺では、禁酒禁肉の禁忌は守られています。
でも、多くの場合、お釈迦様の教えた禁忌は、
守られていないのが現状であったりします、
出家信者のみなさんは、元の教えに戻るべきだと
個人的には思っています。
禁忌には、女人禁制というものもありました。
よく男女差別だという非難をする人がいたりしますが
的はずれもよいところです。なぜ、そうなのか、
深い宗教的な意味があってのことなのですが、
表面だけをみて、物事を捉えることが、過ちに繋がるという
ことの例なのかなと感じることもあります。
宗教的、文化的な禁忌について、知識として知っておくことは
国際交流を行う上でとても大切なことであったりします。
日本人に国際感覚がないと言われるのには
そのあたりについての興味がないことにも関係している
ような気がします。

ところで、人の肉体って、常に変化しています。
同じということはありえません。
細胞の寿命は、意外と短いです。
私たちの体を構成している物質は、
すでに、何度も入れ替わっているのです。
つまり、以前の自分と今の自分は、まったく別の
物質で構成されているのです。
脳細胞から臓器まで、すべて入れ替わっていると
言ってよいでしょう。
つまり、物質的には昔と同じ自分ではないということです。
衣類や建物や道具などとは違って変化しているのです。
でも、同じ人として存在しています。
それは遺伝子情報によって、死んでいく細胞の
情報が、生まれてくる細胞の情報に受け継がれているから
といえるわけです。
では、記憶や心は、どう受け継がれていくのでしょう。
死に生まれ変化する細胞の流れのなかで、
単なる電気信号として保存されているのでしょうか。
科学や医学が、まだまだ解明していない世界が、
人の中にもあることは間違いないということですね。

死の恐怖って、最近余り感じなくなった気がします。
死は新な始まりという感じの方が強いからなのかもしれません。
ホリスティック医学の求めるものは、
全てを包括的に神の視点で捉えるものなのかもしれないなと
思ったりします。
科学と宗教は、昔は非常に密接な関係にありました。
偉大な科学者の多くは、出家した信仰者であったりします。
今のような形に分離したのは、長い歴史のなかでみたら
つい最近のことでしかないともいえるでしょう。
21世紀は、技術的には、光の時代ともいわれますが
社会的には、心の時代というべきなのかもしれませんね。

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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 01:33| 静岡 ☀| Comment(0) | 健康・ホリスティック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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