2018年12月06日

教え学ぶということ

教え学ぶということ

「仏教をめぐって ◆釈迦は文字を残さなかった」というブログ記事をみました。
その答えについて、そのブログでは明確な回答は示されていないといった
印象となっていました。
しかし、その答えははっきりしています。
その理由は明確であり、わかりきったことだとも言えるでしょう。
高みへと至った方は、楽をすることはないということです。
そして、教えることに深い責任感をもっておられたということです。
それゆえに、自らの目の届かぬところに至る可能性のあるリスクを
回避したということなのです。

確かに、お釈迦様も、イエス様も、孔子もソクラテスも
自ら何かを書き残したとして伝えられているものはありません。
仏典も、新約聖書も、論語も、弁明も、
弟子たちによって書き残されたものでしかありません。
仏教、キリスト教、儒教、哲学、
そららの根源にある叡智、真理の本質を学びとることは、
書物を読むだけでは為しえないということだともいえるでしょう。
書物を読むということは、自己だけで解釈するということです。
つまり、読む人間のもっているもの以上のものを導きだすことは
ほぼ不可能であるともいえるのです。
もちろん基礎教養など、書物でも学べるものは数多く存在しています。
しかし、真髄を学ぶには、師から伝え聴くしかないということなのです。
ゆえに、お釈迦様もイエス様も孔子もソクラテスも
対話説法をもって、弟子たちに、弟子ごとに、それぞれのレベルと
必要なものを見極めたうえで、教えを説いていらっしゃったわけです。
それは、自らが叡智の深みを知った方、学び取られた方であるからこそ
真の叡智を伝えること、悟ることの難しさを知るが故の方法で
あったのだと思います。
書いて残した方が楽なのです。
でも、そんな楽をしてしまっては、正しく必要なことを
伝えることなど出来ないと知っておられたのです。
聖者や偉人の方々も、書き物を残されている方はいらっしゃいます。
ヴェーダの叡智では、パームリーフブックとして残されている
叡智が存在しています。
しかし、それらのものは、他人にみせるために書かれたものではありません。
いってみれば、外部記憶として、残されたものであるといえるでしょう。
したがって、パームリーフブックの伝達は、
師から弟子のみ行なわれてきています。
つまり、師から学んだ者で、パームリーフブックの内容を理解できるもの
正しく読みとめるものに伝えられるものであり、
誰にでも開示されるようなものではないのです。
根源的な叡智は、外部記録として残すことが本質的には出来ないと
言うことであるかもしれません。
自らの魂の中に刻み、
魂の中のアカシックレコード(Akashic Records)にのみ残されるもの
それが叡智であるということなのでしょう。
ひとつの真理を伝えるのにあたり、
師は、弟子にとって、必要な形で、必要な内容をもって
教えを説くということなのです。
それが出来るから、師であるともいえるでしょう。
お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテス、
みな師として、高みにあった方々です。
弟子たちに、弟子ごとに、必要な教えを理解できる言葉をもって
伝えられていたということは間違いないでしょう。
さて、師が弟子に伝えた言葉を、第三者が書き残して、
それを、更に別な人が読んだとき、
最初に師が弟子に口伝した内容の意図と意味が正しく伝わるでしょうか。
もちろん正しく伝わるケースもあるでしょう
しかし、多くは、読んだ人の自分の視点と理解でしか認識できないでしょう。
そして、それは最初に師が弟子に伝えたことの本質ではないことの方が
多いことでしょう。
その様な誤った認識が起こることに対して是としない姿勢を
持っておられたということなのだと思います。
しかし、その姿勢は、自らのものであり、弟子たちに強要することは
ありませんでした。
それは、それぞれがそれぞれに考えるべきことであるからです。
また、書いて残すことは、学びの入り口としては悪いことではありません。
良き師への道しるべとはなり得るからです。
深き叡智への道しるべとしての役割は果たしえるということなのです。
「仏典」、「新約聖書」、「論語」、「ソクラテスの弁明」など
弟子たちの残した書物は、その師の教えへの道しるべとしての
役割を担っているということなのです。
しかし、書物だけでは、師の持つ真の叡智への深みには至れないのも
また事実であるといえるでしょう。
より深く、より次元の高い叡智は、
師から弟子へと直接伝えられるものであるということなのです。
それは、叡智を学ぶということの先に、
学んだことによる責任が生じるからでもあります。
インドの叡智は、ヴェーダの叡智といわれます。
その叡智の中の入門といえるもの(学び舎でいえば幼稚舎のレベル)が
世の中に広く出回っている書物の内容ということなのです。
そこから先は、師に弟子入りして学ぶか、
既に学んだ方から、直接伺うしかないということになります。
世に広がっている既知の書物から学べるものは、
それが、この天宙に関わるもの神の世界に関わるものであるなら
その叡智のもつ世界の中では、
入門といえるもの(学び舎でいえば幼稚舎のレベル)でしかない
ということなのです。
その先へ至るには、師から学び、自ら悟るための修行を行なうことが
必要になってくるということです。
そのために必要な方法は、入門レベルの教えの中にも伝わっています。
それは、「五戒」を守ることであり、
「祈り」「瞑想」を行なうことであるわけです。

書き残さない理由として、別な側面もあります。
それは、言葉の持つパワーです。
深い叡智に関わる言葉には、パワーがあります。
それを書き残したものにも、パワーが宿ります。
パームリーフブックには、そこに書かれているものの力は当然のことですが
書かれたパームリーフブックそのものにもパワーが宿っています。
それは、聖書の中で出てくる十戒が刻まれた石版がパワーを
持っていたのと同様です。
聖者と呼ばれるようなレベルの方が、
叡智を書き残すと、それ自身がパワーを持つものとなってしまいます。
その様なものを残すことに価値を見出していなかったのだと
思います。

魂の成長の先には、いくつかの道が存在しています。
お釈迦様の行かれた道へ進むには、お釈迦様の教えを学び
歩む必要が出てきます。
それは、大変なことではありますが、素晴らしいことでもあります。
アラハンとなり、ニッパンへと至る道は既に示されているのです。
そして、その道へと向かうために必要なことを
それぞれのレベルに応じたものとして、
お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテスも、弟子に伝えていたと
いえるでしょう。

成長する早道は、やはり、良き師と出会うことであるのです。
対話説法をもって、教えてくださる深き叡智を修めた師と
出会えたなら幸いであるといえるでしょう。

お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテスといった方々に
出会い、学ぶことが出来た方は、もの凄く幸せであったのだと
いえるということです。

しかし、出会いは縁であり、その縁を紡ぐためには
徳分を積むしかありません。
まさに、これ日々善行ということになるでしょう。

良き師と出会うためには、
良き弟子となりうる準備が必要であるということかもしれません。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 21:46| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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