2020年04月13日

チャンスの逃して権利を失う愚かもの

チャンスの逃して権利を失う愚かもの

 自分自身が、いかに愚かな人間であり、
ダメな人間であるのかを痛感させられている。
貴重な縁により、与えられた恵を、
自らの愚かさによって失ってしまうのだ・・・
この世に縛られている状態から、
脱することが出来ずに、うじうじとしていた結果
貴重なものを失ってしまうのである。
私の人生において、何度か決断し行動すべき機会が
あったかと思う。
しかし、そのいずれにしても、決断しきれず
行動しきれなかったような気がする。
流される道へ楽な道へ、そのまま進んでしまった
そんな人生であったような気がする。
そして、いま、またしても、同じように
愚かなことになってしまっている。
待ってもらえるものではない。
地獄への道のりにおいて、
そこから脱するチャンスを逃す愚かもの
それは、すべて、自分自身の心によるもの
屁理屈はいくらでもつけることができるだろう
しかし、そんなものは屁理屈でしかない
誤魔化しであり、間違いを添加しているだけである
真の叡智を学ぶチャンスは、
誰にでも与えられる可能性があるとは限らない
そして、そのチャンスを掴めるかどうかも
定かではない。
いったん掴んでも、愚かにも手放してしまう
そんなこともある。
「求めよ、さらば与えられん」という言葉の
意味は深い。求める=行動することが、
まず大前提であるということなのだ。
つまり、行動できなければだめなのである。
そして、その行動には、喜捨が求められる。
この世とのつながりの中で捨てられるのに
捨てられないと思い込んでいることやもの
そこの部分についての行動が無ければ
与えられるはずだったものを失うのである。
今の自分は、まさにそんな愚かな状況にある。
そして、愚かな状況だとわかっているはずなのに
行動できずにいる。
この世の柵に捉えられてしまって、
そこを破って前に進む勇気がもてないのである。
しかし、少し変わる可能性もある。
でも、残念ながらすでに手遅れでもある。
チャンスは逃したあとで、行動しても、
戻ってはこないのである。
失ったものは、戻らない。
しかし、それでも前を向いて、
遅かりしであったとしても、
前に進んで、行動していくことを
自分自身に科していくしかない。

脱首都圏、現状で、1か月以内に
それを為すのは難しい。
新型コロナによって、首都圏は封鎖されて
しまっている。その封鎖が解除されて
直ぐに行動しても、間に合わないだろう。
厳しい現実が、そこにはある。
汚れた圏内にいたものが、他に移動するのは
はた迷惑なことである。
でも、行動するしかない場合もある。
そのはた迷惑によっての罪を背負いつつ
歩んでいくしかない。
失ったものの大きさに後悔し懺悔し、
それでも、信じるものを信じて、
残りの人生を生きていくしかない。
いつかくる閻魔様の前での裁定に
自らの人生を振り返り、三度後悔しつつ
地獄で懺悔することになるだろう。


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お釈迦様の言葉

『学ぶことの少ない人は牛のように老いる。
 彼の肉は増えるが彼の知恵は増えない。』

『正しい教えを知らないで百年生きるよりも
 正しい教えを聞いて一日生きる方がはるかにすぐれている。』

『多く説くからとて、その故に彼が賢者なのではない。
 こころおだやかに、怨むことなく、怖れることのない人、
 かれこそ <賢者> と呼ばれる。』

『「その報いが、自分には来ないだろう」と思い、
 善行を軽く見てはいけない。
 水一滴の滴りも、つもれば水瓶をあふれさせる。
 心ある人は、小さな善を積み重ねて、
 いつのまにか、福徳に満たされているのである。』

『愚かな人は常に名誉と利益とに苦しむ。
 上席を得たい、権利を得たい、利益を得たいと、
常にこの欲のために苦しむ。』

『たとえためになることを数多く語るにしても、
 それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
 −牛飼いが他人の牛を数えているように。
 彼は修行者の部類に入らない。』

『世の中は泡沫のごとしと観よ。
 世の中は陽炎のごとしと観よ。』

『苦悩を乗り越えるための聖なる道は8つの部分からできている。
 すなわち、正しいものの見方、正しい決意、
 正しい言葉、正しい行為、正しい生活、
 正しい努力、正しい思念、正しい瞑想である。』

『善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、
 心は悪を楽しむようになります。』

『旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、
 または自分にひとしい者にであわなかったら、
 むしろきっぱりと独りで行け。
 愚かな者を道連れにしてはならぬ。』

『堅い岩が風に揺るがないように、
 賢い人はそしられてもほめられても心を動かさない。』

『貪りと怒りと愚かさを捨て、諸々のしがらみを断ち、
 命が尽きるのを恐れず、犀(サイ)の角のように、ただひとり歩め。』

『生まれを問うな、行為を問え。』

『おのれを抑えることと、
 多くしゃべらずにじっと考えることは、
 あらゆる束縛を断ち切るはじめである。』

『先ず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えよ。
 そうすれば懸命な人は、煩わされて悩むことがないであろう。』

『過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。
 ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。』

『沈黙しても批判され、多く語っても批判され、
 少し語っても批判される。この世に批判されない者はない。』

『「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。』

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ダルマ|dharma

インドの宗教・思想上の重要概念。〈保つもの〉を原義とする。
仏教,ヒンドゥー教,ジャイナ教がダルマを重視する。
この言葉はさまざまな意味と状況で用いられるが,
規範としてのダルマ,善業としてのダルマ,
世界を成立させる根本真理・性質としてのダルマなどに分類できる。
仏教では,仏陀の悟った絶対かつ普遍の真理のことで,〈法〉と漢訳される。
(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)

サンスクリット語では,多様な意味をもつ語であるが,
漢語にはほとんど「法」と訳されているように,
一般的には「倫理的規範」「きまり」を意味する。
法律もダルマであり,宗教的義務もダルマである。
また善の価値観を入れて「美徳」「義務」「正義」の意味にもなり,
古来インドにおける人生の四大事 (法,実利,愛欲,解脱) の一つでもある。
語形的には語根 dhr (保つ) の派生語とされ,
「保つもの」というのが語源的意味と考えられる。
ジャイナ教教祖マハービーラは,ベーダ聖典の権威を否定し,
あらゆる人間,あらゆるとき,あらゆるところにおいても
遵奉すべき普遍的なダルマがあると考えた。
釈尊は一切の形而上学的独断を排し,
既成の価値観から推論することをやめ,現実そのものに向い,
現実のなかから人間の生きるべき道を明らかにして,
これをダルマと呼んだ。
このようにダルマは「教説」でもあり,
人間の守るべき永遠の理法としての「真理」でもある。
ダルマの実現を政治理想としたアショーカ王の存在からも知られるように,
宗教的義務であるダルマは,同時に超法律的な人倫の法でもあるのは,
インド的な政治観念として興味深い。
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 20:24| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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