2019年04月01日

神との出会い〜徳分とカルマの法 知るから学ぶへ

神との出会い〜徳分とカルマの法 知るから学ぶへ

神様との出会い。
スピリチュアルな空間。
聖別された神聖なる時空。
天の扉開きは、そんな素晴らしい場所で
行われる神聖なる儀式であり、
時空を越えた繋がりを感じることの出来る
貴重な場です。

人は、なぜ生まれ、なぜ逝くのか。
この世界はなぜ存在しているのか。
人生とは何なのか、幸福とは何なのか。
生きることとは何なのか。
そのような悩みを解決するためには
知り学ぶことが必要になります。
何を知り、何を学ぶことが必要なのか。
過去、お釈迦様、イエス様をはじめとした
聖人の皆さんが、教えを与えて下さっています。
ただ、直接に学ぶことが出来ないため
その弟子の皆さんの残したものからしか、
その言葉を知ることが出来ません。
正確に伝わっていない部分もあったりしますし
解釈が別に加えられていることもあります。
文献から学ぶことが出来るものには限界があると
いうことなのです。
では、どうすればよいのか、
お釈迦様から直接学ぶことができれば
それが最高であることは間違いありません。
しかし、それは難しいことです。
では、お釈迦様から直接学んだ方から学ぶという
ことが出来たら、それは凄いことであると
いえるでしょう。
叡智の学びは、まさに、そのような方との
縁があるかどうかで、深さも内容も
変わってしまいます。
知ることと、学ぶことは異なります。
まず知ること、次に学ぶこと。
できれば最初から学ぶことが出来れば
よいでしょう。
知っても学べなければ、自分のものになったとは
言えません。
学び実践してこそ、その価値があるということです。
ただ、実践することは、とても大変ではあります。
この世界の様々な障害が立ちはだかるからです。
実践するためには、学ぶことなければ
何も始まりません。
知り、行動し、学び、そして、実践する。
どのプロセスまで、歩むことが出来るのか、
それは、結局のところ、自分自身の問題でしか
ありません。

まず、神の存在を知ることが第一歩です。
それを実感できる場に参加することが、
始まりとなることでしょう。
神の世界との扉が開く、その場に参加することで
その実存を確信することが出来ます。
そして、神の世界の叡智を学ぶ第一歩を
踏み出すことが、人生をより価値あるものに
変えていくことになるでしょう。
より良い人生を歩むために必要なことは
実はシンプルであったりもします。
真理は叡智により深く学ぶことが出来ます。
しかし、人生は実践の場です。
もっとも大事なことを、きちんとつかみ
日々精進していくことこそが、大切であると
いえるでしょう。

また、
素晴らしい実践と学びをされた方の
セミナーの内容を知ることも、
その第一歩といえるでしょう。

松永修岳エグゼクティブセミナー
https://youtu.be/fu4zGtQfSyY
https://youtu.be/BSfEuYVjLsM
https://youtu.be/auYY0OYYbK0
https://youtu.be/Yzbo7WNJ66g
https://youtu.be/Yzbo7WNJ66g
https://youtu.be/BoV4RIef4a0
https://youtu.be/AFjuIFsijOU
https://youtu.be/s3TXAuk3_GM
https://youtu.be/FtKtM5KnXoQ
https://youtu.be/Cc7hSWajrwI
https://youtu.be/JkFDQmhkd0k
https://youtu.be/APkCdsZ-iV8
運〜徳分とカルマ
https://youtu.be/dgrPhDRMc5Q
https://youtu.be/2bz7Px1mnc4
https://youtu.be/DT_qGEi4EpM
https://youtu.be/5IH-RMutk-c
https://youtu.be/FkdWF5gXM-0
https://youtu.be/X1jjYmIUxrw
https://youtu.be/U5UOByuFkRU
https://youtu.be/ehErpwMGrp0
https://youtu.be/fuUNr3u5I0c
https://youtu.be/NXDwAcgHK1I
https://youtu.be/lR5FW_Vj-F0
https://youtu.be/YR5p4kMc-xY
https://youtu.be/YUedJhQVwcs
https://youtu.be/q1mKAv3Sj-I
https://youtu.be/mxTzgGp0Sbk
https://youtu.be/TgP0nM9EI1E
富の源泉
https://youtu.be/piSLAooAv7I
https://youtu.be/vafRRm5vsRk
https://youtu.be/vPmUfraCeEU

天の扉開き : 真の 超常現象 物質化現象 を捉えた映像
https://youtu.be/31X3eTXLekA

天の扉開き_2019年3月17日ラッカイ洞窟_天井カメラ
https://youtu.be/TRhbXIzJ1js

天の扉開き_2019年3月17日ラッカイ洞窟_天幕カメラ_1
https://youtu.be/rb4S5_YYREQ

天の扉開き_2019年3月17日ラッカイ洞窟_天幕カメラ_2
https://youtu.be/zxnDFjSbhtw

空中で金属が物質化する驚異の洞窟「天の扉開き」の謎 MUTube(ムー チューブ) 2015年12月号
https://youtu.be/P2HN2_JL4c4

「天の扉開き」の神聖物 ドラゴンボールの謎 MUTube(ムー チューブ) 2018年2月号 #2
https://youtu.be/83xUTPEsC9w
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 07:09| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月06日

教え学ぶということ

教え学ぶということ

「仏教をめぐって ◆釈迦は文字を残さなかった」というブログ記事をみました。
その答えについて、そのブログでは明確な回答は示されていないといった
印象となっていました。
しかし、その答えははっきりしています。
その理由は明確であり、わかりきったことだとも言えるでしょう。
高みへと至った方は、楽をすることはないということです。
そして、教えることに深い責任感をもっておられたということです。
それゆえに、自らの目の届かぬところに至る可能性のあるリスクを
回避したということなのです。

確かに、お釈迦様も、イエス様も、孔子もソクラテスも
自ら何かを書き残したとして伝えられているものはありません。
仏典も、新約聖書も、論語も、弁明も、
弟子たちによって書き残されたものでしかありません。
仏教、キリスト教、儒教、哲学、
そららの根源にある叡智、真理の本質を学びとることは、
書物を読むだけでは為しえないということだともいえるでしょう。
書物を読むということは、自己だけで解釈するということです。
つまり、読む人間のもっているもの以上のものを導きだすことは
ほぼ不可能であるともいえるのです。
もちろん基礎教養など、書物でも学べるものは数多く存在しています。
しかし、真髄を学ぶには、師から伝え聴くしかないということなのです。
ゆえに、お釈迦様もイエス様も孔子もソクラテスも
対話説法をもって、弟子たちに、弟子ごとに、それぞれのレベルと
必要なものを見極めたうえで、教えを説いていらっしゃったわけです。
それは、自らが叡智の深みを知った方、学び取られた方であるからこそ
真の叡智を伝えること、悟ることの難しさを知るが故の方法で
あったのだと思います。
書いて残した方が楽なのです。
でも、そんな楽をしてしまっては、正しく必要なことを
伝えることなど出来ないと知っておられたのです。
聖者や偉人の方々も、書き物を残されている方はいらっしゃいます。
ヴェーダの叡智では、パームリーフブックとして残されている
叡智が存在しています。
しかし、それらのものは、他人にみせるために書かれたものではありません。
いってみれば、外部記憶として、残されたものであるといえるでしょう。
したがって、パームリーフブックの伝達は、
師から弟子のみ行なわれてきています。
つまり、師から学んだ者で、パームリーフブックの内容を理解できるもの
正しく読みとめるものに伝えられるものであり、
誰にでも開示されるようなものではないのです。
根源的な叡智は、外部記録として残すことが本質的には出来ないと
言うことであるかもしれません。
自らの魂の中に刻み、
魂の中のアカシックレコード(Akashic Records)にのみ残されるもの
それが叡智であるということなのでしょう。
ひとつの真理を伝えるのにあたり、
師は、弟子にとって、必要な形で、必要な内容をもって
教えを説くということなのです。
それが出来るから、師であるともいえるでしょう。
お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテス、
みな師として、高みにあった方々です。
弟子たちに、弟子ごとに、必要な教えを理解できる言葉をもって
伝えられていたということは間違いないでしょう。
さて、師が弟子に伝えた言葉を、第三者が書き残して、
それを、更に別な人が読んだとき、
最初に師が弟子に口伝した内容の意図と意味が正しく伝わるでしょうか。
もちろん正しく伝わるケースもあるでしょう
しかし、多くは、読んだ人の自分の視点と理解でしか認識できないでしょう。
そして、それは最初に師が弟子に伝えたことの本質ではないことの方が
多いことでしょう。
その様な誤った認識が起こることに対して是としない姿勢を
持っておられたということなのだと思います。
しかし、その姿勢は、自らのものであり、弟子たちに強要することは
ありませんでした。
それは、それぞれがそれぞれに考えるべきことであるからです。
また、書いて残すことは、学びの入り口としては悪いことではありません。
良き師への道しるべとはなり得るからです。
深き叡智への道しるべとしての役割は果たしえるということなのです。
「仏典」、「新約聖書」、「論語」、「ソクラテスの弁明」など
弟子たちの残した書物は、その師の教えへの道しるべとしての
役割を担っているということなのです。
しかし、書物だけでは、師の持つ真の叡智への深みには至れないのも
また事実であるといえるでしょう。
より深く、より次元の高い叡智は、
師から弟子へと直接伝えられるものであるということなのです。
それは、叡智を学ぶということの先に、
学んだことによる責任が生じるからでもあります。
インドの叡智は、ヴェーダの叡智といわれます。
その叡智の中の入門といえるもの(学び舎でいえば幼稚舎のレベル)が
世の中に広く出回っている書物の内容ということなのです。
そこから先は、師に弟子入りして学ぶか、
既に学んだ方から、直接伺うしかないということになります。
世に広がっている既知の書物から学べるものは、
それが、この天宙に関わるもの神の世界に関わるものであるなら
その叡智のもつ世界の中では、
入門といえるもの(学び舎でいえば幼稚舎のレベル)でしかない
ということなのです。
その先へ至るには、師から学び、自ら悟るための修行を行なうことが
必要になってくるということです。
そのために必要な方法は、入門レベルの教えの中にも伝わっています。
それは、「五戒」を守ることであり、
「祈り」「瞑想」を行なうことであるわけです。

書き残さない理由として、別な側面もあります。
それは、言葉の持つパワーです。
深い叡智に関わる言葉には、パワーがあります。
それを書き残したものにも、パワーが宿ります。
パームリーフブックには、そこに書かれているものの力は当然のことですが
書かれたパームリーフブックそのものにもパワーが宿っています。
それは、聖書の中で出てくる十戒が刻まれた石版がパワーを
持っていたのと同様です。
聖者と呼ばれるようなレベルの方が、
叡智を書き残すと、それ自身がパワーを持つものとなってしまいます。
その様なものを残すことに価値を見出していなかったのだと
思います。

魂の成長の先には、いくつかの道が存在しています。
お釈迦様の行かれた道へ進むには、お釈迦様の教えを学び
歩む必要が出てきます。
それは、大変なことではありますが、素晴らしいことでもあります。
アラハンとなり、ニッパンへと至る道は既に示されているのです。
そして、その道へと向かうために必要なことを
それぞれのレベルに応じたものとして、
お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテスも、弟子に伝えていたと
いえるでしょう。

成長する早道は、やはり、良き師と出会うことであるのです。
対話説法をもって、教えてくださる深き叡智を修めた師と
出会えたなら幸いであるといえるでしょう。

お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテスといった方々に
出会い、学ぶことが出来た方は、もの凄く幸せであったのだと
いえるということです。

しかし、出会いは縁であり、その縁を紡ぐためには
徳分を積むしかありません。
まさに、これ日々善行ということになるでしょう。

良き師と出会うためには、
良き弟子となりうる準備が必要であるということかもしれません。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 21:46| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月31日

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)とは

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)とは

マーヤ姫がお釈迦様を生んで5日後に亡くなられたあと
テワダーの最も高位のレベルに行かれていました。
お釈迦様は、悟りを開かれたあと、
ある満月の日(陰暦11月)にテワダーの世界に行かれて、
マーヤ姫にお会いになりダルマを説きました。
説法を聞かれたマーヤ姫は、アラハンとなり
ニッパンにあがられました。
お釈迦様の生母マーヤ姫への親孝行は
まさに最高のものであったのです。
お釈迦様がマーヤ姫に説法を行なったあと
地上に戻られるにあたって
インドラ神が3つの階段を創られました。
「金の階段」「銀の階段」
「クリスタルのようなガラスの階段」
お釈迦様は、その中のひとつを使って
地上に戻られました。
その際に、天界の扉、地獄の扉、地上世界の扉が
同時に開かれました。
お釈迦様は、開いた扉を通じて全ての世界の様子を
ご覧になられていました。
お釈迦様の弟子たちは、お釈迦様が
テワダー界から地上に戻られる様子を見ていました。
その素晴らしい日を讃えて、
パンサーの明ける日とすることになったのでした。
この日は、3つの世界の扉が開く日となりました。
それから、メコン川の中で、扉が開くようになったため
凄いパワーが流れ込むようになり、
そのエネルギーが火の玉となって
メコン川の中から昇ってくるようになったわけです。

やがて、その様子は、
お釈迦様を守る者であるナーガ神が、お釈迦様の偉業を
讃えるために祝福の火の玉を吹き上げていると
言われるようになったのでした。

現象について今だ謎なのは当たり前なことです。
なぜなら現代科学では説明できない現象だからです。
しかも、その現象は今の科学的工学的手法では
捉えることはできません。
(結果としての火の玉を記録することしか出来ない)
目に見えない存在、神の世界の存在を信じた上で
なければ、論理的な説明は成り立たないものなのです。

天の扉開きと同じような現象であるといえるでしょう。

この世界には、天界の扉、地獄の扉が、
開くような場所が、いくつか存在しています。
定期的に開くような場所もあり、
その様な場所は、聖地や神秘な場所として
語られるようになっているわけです。
神山(カイラス)山頂の上も、そんなひとつであったりします。

プジャの様な神聖な儀式によって、
扉を開くことも可能です。
天の扉開きは、まさに天界の扉を神聖な儀式によって
開くものであるわけです。

その様な場所に赴くときには、
やはり真摯な心をもっているべきでしょう。
その場所そのものは聖なる空間となっていますが、
その場所の周辺には、そこに行けないけれども
そこから流れるエネルギーを欲して
悪い存在も集まってきます。
きちんとしていない場合には、そんな悪い存在と
関わることになってしまうケースもあり得るのです。
また、善い存在であったとしても
強いスピリチュアルな存在を怒らせるようなことを
してしまうと、その報いを受けることになるかもしれません。
神隠しにあってしまうというのは、
そんな事例のひとつであるのです。

聖なる場所や祝福されし場所にむかうことが出来て
神秘なる現象に立ち会える機会を得たのであれば
感謝して、徳を積むように行動すべきでしょう。

バンファイパヤーナーク
https://youtu.be/HD7t2Vy0cRY
https://youtu.be/Kth8cWJQUkA
https://youtu.be/cpj5XYa9GnQ
https://youtu.be/HJtax-riEhQ
https://youtu.be/DbvPp322i6g

お釈迦様に纏わる大事な日
マーカブチャー(万仏祭)旧暦2月満月
ウィサーカブチャー(仏誕節)旧暦6月満月
アサラハブーチャ(三宝節)旧暦8月満月
カオ・パンサー(入安居)旧暦8月十六夜
安居:ヴァルシャ(サンスクリッド)、ヴァッサ(パーリ語)
オーク・パンサー(出安居)旧暦11月満月
タイでは禁酒日ともなっている。
本当は常に禁酒が善いが、お釈迦様に礼を持つのであれば
最低限祝日とパンサーの期間くらいは禁酒すべきだろう。
出来るのなら、
お釈迦様もお説きになられた
「人間らしい生き方」への道しるべである
五戒を守ることが、本当は望ましいことだといえる。

「国十善を行ひ、人五戒を修すれば、五穀豊登し万民安楽なり」
 (弘法大師空海)

五戒を守る僧侶の会より
http://gokaiga.aikotoba.jp/index.html
一. 私は故意に生き物を殺しません(不殺生戒)
二. 私はどのようなものも盗みません(不偸盗戒)
三. 私は夫婦以外の性的関係を持ちません(不邪淫戒)
四. 私はいつわりを語りません(不妄語戒)
五. 私は酒や麻薬などを摂取しません(不飲酒戒)
(これは、日本仏教の初歩的なレベルの話といえるだろう)

五戒は、お釈迦様の誕生を告げられたときに
お釈迦様の説教を聴きたいのであれば、
輪廻転生の中で、守るべきこととして示されたものであり
インドの神話時代からの教えであるといえるもの。
五戒の言葉は、非常にシンプルであるものの
その内容について、どこまで守れるのかは
人によって異なってくるとも言えるものである。
より深く守るのであれば在家では難しくなってくる。
どのレベルで守れているのかによって
その人の魂のレベルが異なっているのだともいえるだろう。
また、魂の成長のレベルも、五戒の守れるレベルによって
異なることだろう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 20:44| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月30日

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)

タイのメコン川各地で年に一度だけ見られる
バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)。
陰暦の11月の満月の夜にナーガ神
(ナーガ神とはお釈迦様を守る者として古くから崇められてきた龍の姿をした神)が
メコン川の底から現れて、祝福の火の玉を吹き上げるという神秘の現象。

https://youtu.be/EpiUc-nYbo0

https://youtu.be/cpj5XYa9GnQ

https://youtu.be/4qukKpbJhBU

https://youtu.be/eS8NkPvJMPA

陰暦11月の満月の夜、メコンに棲む竜神が”火の玉”を吐く。
http://ryotawakasone.blogspot.com/2010/10/blog-post_23.html

【アジア発!Breaking News】花火?発砲?未だ謎。年に一度だけ、満月の夜、メコン川から飛び出す火の玉(タイ)
http://japan.techinsight.jp/2009/10/wakasone0910060400.html

バンファイ・パヤナークはメコン川に打ち上がる神秘の火の玉【TVウォッチング】
https://www.thaich.net/news/20141110a.htm

バンファイ・パヤナーク(龍神の火の玉祭り)
https://ameblo.jp/phakchii/entry-10688763517.html

この現象が起こる日は、
お釈迦様にまつわる日であったりします。
オーパンサーの日です。
この現象も、それに関わるものであり
人々に、この世ではない世界の存在を
教えてくれているものでもあるといえるでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:05| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

五戒について

五戒について

お釈迦様の深い教えは、日本には残念ながら
伝わってきていないものの
お釈迦様の教えの基本となるものは
大乗仏教として中国経由で日本にも
伝わっているものはあります。
その基本中の基本が、
「在家の五戒」
の教えです。

これは、在家とあるように
出家したお坊さんはもちろんのこと
檀家の皆さん、信者の皆さんも守るべきものとして
伝えられているものであるわけです。
仏教の基礎中の基礎といえるかもしれません。

その五つの基本であっても、
しっかりと守ることができる人が少ない社会に
平安があるわけもないのかもしれません。
また、守れないということは、
カルマを積むということでもあったりします。
地獄の深い方に逝きやすくなってしまうと
いうことになるわけです。
カルマを多く積んでしまうと、
死後、地獄でも深い地獄にいかなければ
ならなくなってしまいます。
そうならないためにも、
五戒は守って生きていくのが善いでしょう。

不殺生戒(ふせっしょうかい)
- 生き物を殺してはいけない。
殺すことに関与してはいけない。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
- 他人のものを盗んではいけない。
盗みに関与してはいけない。

不邪淫戒(ふじゃいんかい)
- 不道徳な性行為を行ってはならない。
邪な想いを抱いてはいけない。

不妄語戒(ふもうごかい)
- 嘘をついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい)
- 酒を飲んではいけない。

善き人として、守るべき基本が、
この教えには含まれていると言えるでしょう。
お釈迦様が御生れになる10万年前に
神様からお釈迦様の降臨が告げられたとき
お釈迦様の傍で学ぶことが出来る者の
条件として、五戒を守って生きたものであることが
告げられていました。
この世で五戒を守って生きることは、
正道であり、霊性修行の王道であると
いえるでしょう。
お釈迦様の教えが広がって欲しくない存在は
五戒が守れないように誘惑してきます。
いろいろと守れない言い訳を教授してくるのです。
守らなくても大丈夫な理由をつくりだすように
誘導してきます。
嘘は言わずに、でも嘘を思い起こさせるように、
惑わしてくるわけです。
五戒が守れないときの言い訳の全てが
まさに、そのような誘導から生まれた理屈であり
真理から離れたものであるわけです。
聖者と呼ばれるようなレベルの方々は、
普通に生活していて、五戒を守っているレベルと
なっています。
自然に身についているということです。

日本にいると、なかなか守れないものは、
不飲酒戒と
不殺生戒といえるでしょう。
日本は、それほど次元の高くないスピリチュアル的な存在や
エンティティといった存在などと交流してきたため
お酒好きなエンティティにお酒を捧げたりしてきました。
海のある国ということで魚を殺すことも多いです。
また、明治維新後は西洋化の流れのなかで
肉を食べることも多くなってしまいました。
殺処理された死体を食べるのは殺す原因となっていると
いうことなのです。
この3つの戒を守れないためにカルマを積んでいます。
日本に生まれたこと、
五戒を守れないような環境に生まれたことも
過去世におけるカルマのためだといえます。
したがって、カルマ解消のためには、
努力と苦労が必要となるのは仕方のないことです。
出来なければ、カルマを増やして来世で苦労するだけです。

日本仏教が、お釈迦様の教えが伝わっていないと
いわれてしまうのは、出家していない人でも
守るべきだとお釈迦様が教えてくださっている
五戒すらも守れていないことが理由であるともいえるでしょう。

生活習慣としての基本、
禁酒、ベジタリアンは、当然のこととして、
他人のものを盗まないのも当然であり、
不純な性行為についても当然であり、
嘘をつかないのも当然ではあります。
私も、なんとか守っているかなと
いったところでしょうか。
でも、人生の歩みとしては
まだまだ足りないところばかりです。

ひとりでも多くの人が、
お釈迦様の教えに耳を傾けて
人生をより深く豊かなものにしていけるように
できることを願ってやみません。

今世における霊性修行において、
五戒を守ることは初級以前のレベルといわれます。
五戒を守って、その先に進むのであれば
より善き来世があるでしょう。
では、何を為すのがよいのか、
それについてもお釈迦様は教えてくださっています。
それを学ぶかどうかも、また、
ひとりひとり、自分自身で決めていくことなのです。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 23:51| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁忌について

禁忌について

禁忌、タブーという言葉に対するイメージは
現在の日本社会においては、都市伝説と同じようなレベルに
陥ってしまっているような感じがします。
正しく理解できていない方が大半ではないのでしょうか。
それは、人々が信仰心や畏敬の念を
持つことがなくなってきていることでもあるのでしょう。
それは、社会として悪い方向に向かう予兆であり、
不幸がより多くなっていく流れでもあります。
また、利己主義、個人主義の比重が高くなって
相手を思いやったり、利他の心で接したりすることが
出来なくなってきているということでもあるでしょう。
その結果は、霊性修行どころか、地獄への道と
なってしまっていることでもあります。

ネットで、禁忌について、和のこころを踏まえた上で
書かれていた方がいらっしゃいました。
とても良いことだなっと感じました。

日本のタブー(禁忌)
https://wajikan.com/note/taboo/
女人禁制と女の穢れの関係
https://wajikan.com/note/nyoninkinsei/

しかし、その内容については、
それなりの解説ではあるのだけれど
本当に大事な部分の説明がないのが残念でした。
この様な情報をネットに公開するような方でさえ、
深い叡智について学ぶことが出来ていないのが
日本の現状であるのだなっと感じたのでした。

この解説のなかでは、
禁忌については、3つのパターンがあると説明されていました。
大雑把に言えば、
1.不作法となるもの
2.損になるものという日常の生活上の知恵
3.精霊崇拝と神道的信仰からくるもの
となります。
1と2は、儒教的な礼節や慣習、日本の礼儀作法に関連する知恵、
生活の知恵といったものが、忘れてはならないこととして
禁忌として伝えられているというものとされています。
3については、あまり内容について触れられていませんでした。
女人禁制の方で、仏教伝来と広がりの中での
日本古来からの女性リーダー中心から男性中心への変化の歴史と
あわせた形での説明の中で少し関連することに
触れられてはいましたが、信仰心という視点と
スピリチュアル的な存在についての視点からの説明は
ほどんどありませんでした。
また、仏教についても、日本に伝来してきた仏教が
本来のお釈迦様の教えとは異なる部分が多い
ヒンドゥー的な部分が中心となった大衆向けに
変遷した大乗仏教であり、しかも中国文化のフィルタを
通って更に変化したものが伝わっているということ
そのために、大事な部分で欠落しているところが
多くあることを知っていたら、説明が変わるだろうなと
感じるような内容でした。
そして、残念なのが、女人禁制について伝統という言葉を
つかって括ってしまっているところです。
女人禁制や入山禁制、神官以外立ち入り禁止などの
禁忌は、伝統ではありません。
長い間継承されてきたから、伝統として見えるだけです。
その部分を勘違いされている方が非常に多いのが
残念でなりません。
本当の禁忌は、神事であり、スピリチュアル的なものです。
そして、人を守るためのものです。
人を守る知恵であるといえるでしょう。
大相撲の土俵が女人禁制なのは、
土俵が神事によってスピリチュアル的に特別な空間と
なっているために、女性が立ち入ると
そのスピリチュアル的存在によって、
その女性に悪いこと(日本的には神罰ともいう)が
起こることがあるために、
女性は入らない方が良いということを知恵として
もっているということなのです。
したがって、伝統とは無関係です。
神事をおこなっていない土俵であれば
女性が入ってもまったく問題はありません。
当然、禁忌の中には男禁制ということもあります。
また一般人禁制ということもあります。
それぞれに、そのエリアにおける目に見えない存在に
対する無礼とならないように、
怒りをかって、悲惨なことにならないように
人を守るために示されている知恵なのです。
すなわち、リスクヘッジであり安全対策ということです。
禁忌は伝統ではなく、まさにリスク安全対策の知恵だと
いえるでしょう。
実際、禁忌を破って、最悪のケースで
神隠しと呼ばれるようにこの世界から消えてしまったり
事故や病気などで死んでしまうこともあります。

唯物的な考え方しか出来ないみなさんは、
迷信という言葉を使って否定するのでしょう。
しかし、それは利己的な欲望のための方便でしかありません。
もしかしたら、悪魔やバッドスピリッツに
コントロールされて、そう思わされているのかもしれません。

日本民族は、古来から自然と深く関わってきました。
その中で、自然の声を聞き、
自然の中のスピリチュアル的な存在の声を聞き、
それを知恵としてきたわけです。
それは、とても貴重で価値の有る知恵です。
禁忌は、まさに、そんな知恵のひとつです。
祖先から受け継がれている大切な知恵を
忘れていくことは、大きな損失であり、
とても不幸なことであるといえるでしょう。
禁忌について考えるとき、
それを、どのように考えるのか、
それは、みなさん、一人ひとりが、
自分自身で考えるべきことであり、
誰からも強制されることのないことです。
ただ、
そのアプローチの仕方で、
人生は変わっていくことでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 23:50| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本人の信仰と宗教について

日本人の信仰と宗教について

 日本の仏教は、まさに日本仏教といってよい
特殊な変遷を経たものとなっています。
先だって、NHK番組の歴史秘話ヒストリアにて

奥深いニッポンの信仰心
http://www.nhk.or.jp/osaka-blog/historia/298556.html

という内容の放送がありました。
神仏習合の“封印”を解き明かしたと題するものでしたが
番組内容はあまり信仰心のあるとは思えないものでした。
神事に対する扱いを、もっと信仰心をもって
畏敬を忘れないで番組作りをして欲しいなと感じました。
おそらく、製作者、制作者ともに信仰心が薄いのでしょう。
非常に残念なことだなっと感じました。
日本の信仰の基本は、神道にあるわけですが、
その源流は、自然崇拝からきているわけです。
シャーマニズム的なものであったといえるでしょう。
女神も多く、司祭も女性が多かったのは、
日本に住むスピリチュアル的な存在の嗜好によるもので
あったのかもしれません。
日本における神は、スピリチュアル的な存在全てを
さすものであったわけです。
エンティティや妖精や妖怪といったものまで含め
目に見えない存在や、強い力をもった存在は、
すべて神として畏敬をもって対していたのが
日本人の信仰であったといえるでしょう。
八百万の神とは、まさに日本人の信仰感の基本と
なっているということです。
大陸から大乗仏教が伝わってきたとき
仏もまた目に見えない存在であったので、
何の違和感もなく、八百万の神の中に
受け入れることが出来たはずです。
番組では、政治や宗教によって、取り込みが
行われたという部分をフォーカスしていましたが
日本に大陸から伝わってきた教えとしては、
主流は中国の教えと中国経由での教えであったわけです。
儒教と大乗仏教が、大きなものであったといえるでしょう。
共に、日本の社会にとって、違和感のあるものでは
なかったといえると思います。
大和朝廷は、この教えを統治に使うことで
人心を掌握し人々と導いていくことが出来ると考え
取り入れていったことになります。
よりわかりやすく民に伝えるために、
番組で紹介されていたように、仏を八百万の神に
取り入れていったということです。
大乗仏教で伝わっている仏の多くは、
ヒンドゥーの神々であったりするので、
ヒンドューの神々の化身としてお祭りされている
仏様や神様も数多く存在しています。
番組の中で、神と仏の違いについての下りが
ありましたが、あまり意味のないものでした。
実際、本当に深いレベルでは、違いはないのですから。
表面的な違いは、信仰とは関係のない宗教的部分に
よりものであったりするので、気にすることは
あまりありません。
どの様な神でも仏でも、目に見えぬ存在に対して
畏敬の念を忘れることなく対することが
大切であるということなのですから。
日本には、お釈迦様の教えはほとんど伝わっていません。
大乗仏教が、大衆向けにインドでの教えの初心者向けの部分を
整理したものであるために、多くの内容が
ヒンドゥーの内容であったりしています。
また、原典のサンスクリット語の音を漢字にあてて写したため
漢字を表音文字として使ったことで、
その内容を漢字を表意文字として読み取ってしまって
まったく異なった内容として学ぶようになってしまったものが
数多く存在しているために、本来の意味が伝わっていないものが
多くなってしまっています。
その代表的なものが般若心経であったりします。
本来は音をサンスクリット語として訳すべきなのですが
多くが、漢字をそのまま訳しています。
もちろん、音あてした人が、本来の意味に近い漢字を
選んでいるので、それなりの意味にはなるのですが、
正しい意味にはなりえません。
ただ、その解釈は、お釈迦様の教えではないとしても、
その後の高僧の教えではあるので当然尊いものです。
日本に大乗仏教が伝来した当時は、大乗仏教として
しっかりとした内容のものであったのですが、
日本仏教は、だんだん本来の姿を失っていきます。
それは、神仏習合によるものということではないと
私は思っています。
一つ目の劣化点は、江戸の寺社奉行制度導入によるものであり
二つ目の劣化点は、明治維新の廃仏毀釈、西洋化政策によるものであり
三つ目の劣化点は、戦後の唯物個人主義教育によるものだと
思っているからです。
この変化は、そのまま日本の霊的レベルの低下にも関わっています。
NHKの番組では、神仏習合と神仏分離(廃仏毀釈)を扱っていました。
ただし、その視点は西洋学術的な俯瞰でしかなく、
本質に迫るようなレベルのものではなかったといえるでしょう。
しかし、それは番組の性質上、そうなったのだと思いますので
仕方のないところです。
日本人は、昔から受け継がれてきた大事なものを
形式だけを受け取って、その背後にある深い意味について
目を向けることをやめるようになってしまっています。
それは唯物個人主義教育の影響抜きではあり得なかったでしょう。
お祭りや年中行事には、神仏的な意味が背景にあるものです。
その部分の深い知恵に、もっと目を向けていく必要があるでしょう。
そうしないと、形式だけの継承はやがて廃れていってしまい
消えていってしまうことでしょう。
神道的な意味、大乗仏教的な意味、儒教的な意味、
それらの信仰的な部分に、スピリチュアル的な意味や価値が
伝わっていること、そして、そこに日本人の心のあり方の
源流があることを忘れてはならないと思います。
大乗仏教、儒教、道教が日本に伝来したころ、
聖徳太子、天武天皇をはじめとした大和の知恵者が、
その教えを取り入れていきました。
良いものは取り入れるというのは善き姿勢だと思います。
日本仏教は、大乗仏教から変遷してきたわけですが、
大乗仏教は、ヒンドゥー教にお釈迦様の教えを少し混ぜたものなので
ヒンドゥーの神々が多く日本に伝来することになりました。
また、残念なことにお釈迦様の教えは、
日本に正しく伝来することはありませんでした。
とくに、サンガという重要な部分については、
まったく日本には伝わっていないことは良く知られているところです。
そのため、仏法僧というものは正しくは存在していません。
サンガが無かったのですから。
出家者が在家の五戒も守れないようになってしまっているのも
日本仏教が、お釈迦様の教えから遠くなっていることのひとつです。
戦前までは、日本人は、あなたは何を信仰していますかと
問われたら、神様とか、仏様と答えたことでしょう。
宗教は何かと問われたら、神道、仏教と答えたことでしょう。
戦後を経た今、多くの日本人が、無宗教と答える状況に
日本の霊格は堕ちています。
神社にお参りし、お祭りを祝い、お盆に先祖を敬いうという
宗教儀礼に参加しているのに、無宗教と言うのは、
おかしなことなのですが、それをおかしいと思わないレベルまで
慣習と慣例から、本来の意味が失われてきているということです。
信仰を持つ外国人から見たら理解できないおかしいと思われるのは
当たり前なことです。
物質的な豊かさの代償に、
日本人は大事なものを失っていっているといえるでしょう。
その結果、多くの社会問題が発生してきているのだと思われます。
自然を大事に思い、見えない存在に畏敬の念をもち
祖先を敬い感謝し、家族の絆を大切にしていた日本人の心、
その精神は、日本人の信仰心に基づいたものでした。
信仰心を失っていくなかで、心も失われてきたと
いえるのではないでしょうか。
戦前のすべてを否定してきた戦後教育は、
大きな過ちであったことは明白です。
戦前の反省すべき点、悪かった点のみを改善して
戦前の善き点をしっかりと継承することこそが
大切であったといえるでしょう。
いまから、それを取り戻していく必要あるということです。
どんな宗教であるかは、関係ありません。
目に見えない存在に対して、しっかりと向き合い
畏敬の念をもって対することが出来る心を
取り戻していくことが大事なのです。
そして、日本の文化、伝統、慣習などに残されたものの
本質を学んでいくことが、祖先への感謝と敬愛となると
いえるでしょう。
日本仏教もまた、江戸以前の開祖の頃の在り方を
省みて、原典回帰していく必要があるように感じます。
行き過ぎた政教分離も変えていく必要があるでしょう。
スピリチュアル的な面へのアプローチが
より大切になっていくことでしょう。

低下してきた日本の霊格がこれ以上堕ちることのないように
するためには、日本人の心に信仰心がもどってくることが
必要になります。
そのことを、ひとりひとりが考えていくことが
人生の価値を高めていくことに繋がっていくことでしょう。
そして、社会がより善い環境へと変化していくための
土台となっていくことでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 23:49| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月30日

聖書の教えとは・・・・・


キリスト教の流れの中にある教えを
学ぶ場に、参加する機会がありました。
その中で学んだことと、私がこれまでに
生きてきたなかで、学んだことから、
個人的な意見を少し語ってみようかと思います。
あくまでも、一小市民の考えでしかありませんので
その点はご承知おき下さい。
当然、間違っているかもしれません。
または、もしかしたら確信を得ているところも
あったりするかもしれません。
それは、私が判断できるものではありません。
でも、私の意見の中で、何かを感じることが
出来るようでしたら幸いです。

この世の中における経済、政治の問題は
欧米中心にして存在していると言えるかもしれません。
欧米の世界は、基本的に一神教の世界となっています。
争いは、欲望の発露であるとも言えます。
一神教の国々の歴史的な恩讐や価値観の違いは、
本来、あるべきものではないと言えるでしょう。
しかし、なぜかなくなりません。
それは、本来の一神教の教えが正しく伝わっていない
認識されていない、または、阻害されているから
なのだと言えるのではないでしょうか。
阻害は、サタンやブラックマジックや
バッドスピリッツなどによるものもあるでしょう。
または、それぞれのカルマによるものもあるかもしれません。
一神教では、原罪、罪によるものという視点もあります。
一神教の世界の課題は、一神教の教えをもって
解決していく必要があるとも言えるでしょう。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
一神教は、欧米中心にして、世界の主要な国や人々に
根付いています。
その教えの原点は旧約聖書であり、
信仰する神は同じ創造神クラスの神であり
神の御使いも同じであるわけです。

創造神の意図により、この世界が創造されたことが
創世記に記述されています。
そして、最後に人を創造されたわけです。
エデンの園に、アダムとエヴァを創造して
神より守るべき約束を告げられて
禁酒、フルータリアンとして
様々な動物たちと共に暮らしていたわけです。
自然にアヒンサーが守られている世界であり、
理想的な霊性修行の場であったのだろうと
思われます。そのまま神との約束を守っていたら
成長し、真理を学び、神の世界へと逝くことが
出来たのでしょう。
ところが、天使長にそそのかされたエヴァが
アダムを誘い神との約束を破ってしまいます。
神との約束を破ったことにより罪を得てしまい
エデンの園を追放となってしまうわけです。
キリスト教では、これを原罪と読んでいます。
そそのかしたものはより重い罪を背負うことに
なったわけです。
そして、死後は地獄に行くことになるわけです。
天使長ルシフェルは堕落してサタン長となったと
されるわけです。
以後、エデンの園に戻るための歩みが始まると
いうことになります。
追放された堕落世界は、飲酒、ノンベジの世界でも
あったわけです。
エデンに戻るためには、新たな神との契約を守り
蕩減復帰を成し遂げていくことが必要ということに
なったわけです。
カルマ解消とも言えるでしょう。
では、どの様にして、エデンに戻っていくのか
その道について、先人たちの歩みと失敗の記録が
聖書に綴られていると解釈されていたりします。
アダムの家庭における復帰の道は、
その子であるアベルとカインによって
なされるはずであったというわけです。
神からの啓示を守ることが出来るのかという
ことに尽きる内容であるのに、
誘惑や心の弱さによって、神との約束、啓示を
守ることが出来ずに、罪を重ねていったわけです。
神への従順と私欲を捨てることが出来るのか
それが問われている内容が試練として
語られていきます。
アベルとカインの兄弟の失敗は、
その弟のセツの家系によって蕩減復帰が
求められていきます。
ノアの家庭へと繋がっていくわけです。
ノアの家庭は、神の啓示を信じて
洪水を生き残ることになるわけです。
黄色肌のセム、黒い肌のハム、白い肌のヤペテ
ノアの息子たちにも試練が課せられます。
しかし、失敗してしまうわけです。
そして、その子孫にまた蕩減復帰すべき罪が
残されていくことになるわけです。
アブラハムの家庭へと引き継がれ、
アブラハムは最初に躓きます。
そのため、イサクとイスマエルの兄弟が
アベルとカインの蕩減をすることなく、
イサク献祭という試練を経て、
イサクの子であるヤコブとエサウによって
蕩減復帰の試練が受け継がれることに
なります。
イスマエルは、アラブの民となり、
イスラム教の民へと繋がれていきます。
ヤコブは、母リベカの協助もあって
蕩減復帰の試練に勝利します。
その勝利権により、
イスラエルと名乗ることになるわけです。
イスラエルの民は、その後祖先の罪を
蕩減するための試練をエジプトで受け
モーセの登場によって導かれて
カナンの地に国を築くことになるわけです。
そして、サウル、ダビデ、ソロモンと
聖霊の叡智の深まりと国家の繁栄を得ます。
大預言者エリアが登場するも、
国の分裂を招き、バビロンに捕囚され、
預言者マラキにより改革が行われ、
エリアの再臨が予言されるわけです。
ユダヤ教は、エリアの再臨を待っています。
エリアの再臨として、キリスト教は
イエスを預言者、再臨主としています。
しかし、メシアとしてのイエスは、
十字架に磔にされて王として迎えられることなく
天に戻ってしまいます。
アダムからアブラハムまでの2000年
アブラハムからイエスまでの2000年
イエス以後の2000年
一神教世界の歴史は螺旋を描くように
同時性を持ちながら領域を広げて
繰り返す形で復帰を求めてきたと
言うわけです。
ヤコブ=イスラエルからの
エジプト苦役時代400年
モーセから出エジプト後の
士師時代の400年
サウルからの統一王朝時代120年
南北王朝分立時代400年
民族捕囚復帰時代210年
マラキからメシア降臨準備時代400年
メシアとしてイエスを迎えるも
エデン復帰ならず。
ユダヤ教からキリスト教が生まれる
イエス昇天からのローマ迫害時代400年
アウグスチヌスから教区長制教会時代400年
ムハマンドの登場によるイスラム教の成立
カール大帝からのキリスト王国時代120年
東西王朝分立時代400年
法王捕虜復帰時代210年
ルターによる宗教改革から
メシア再臨準備時代400年
21世紀は再臨の時代
一神教が、蕩減復帰をなして、
エデンに向けて歩みをなす時代
アダムとエヴァの罪、
アベルとカインの罪、
その罪を復帰できずに繰り返された罪
それらを贖罪して、サタン、悪心を分立し
救いを成して昇華させて、
新しいエデンを築く時代にあるという。
幸せはどこにあるのか、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
どの教えも、幸せの基盤となる社会の単位を
家庭に定めています。
家族を大事にすることが基本となっています。
ところが、現代社会は、個人主義の行き過ぎから
家庭崩壊が起こっています。
その為に、多くの社会問題が発生していると
言えるでしょう。
理想の夫婦、理想の家庭があってこそ、
理想の地域社会、理想の国家があり得るとのは
この世界における真理であると言えるでしょう。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
どれもが、人類始祖として
アダムとエヴァを、
聖者として預言者として
ノア、アブラハム、モーセを認めています。
旧約聖書の預言者は、一神教の共通な預言者であり、
聖者であると言えるでしょう。
イスラム教はイエスも偉大な預言者としています。
最後の預言者がムハンマドであるとしているわけです。
イエス様にかかった聖句をまとめたものが新約聖書であり、
ムハマンドの啓示の内容をまとめたものがクルアーンです。
キリスト教はカソリック、プロテスタントに分かれ
プロテスタントからは更に聖者や預言者が現れていきます。
イスラム教も、スンニ派、シーア派に分かれ、
シーア派からは、バハーイー教が現れます。
一神教のベースである聖書を解く形で出てきたものに
統一原理があります。
一神教の世界は、政教一致と政教分離を繰り返しながら
唯物論、共産主義を生み出すという神からの乖離の
流れも出してきました。
それらを、神学的、哲学的に、統合包括批判して
一神教のゆくべき道を示しているひとつが
統一原理、統一思想の考え方であると言えるでしょう。
既存も宗教は、神と肯定し、魂の存在を認めるという
点において、それぞれに尊ばれるべきです。
その価値は別として、その存在を否定し
非難するのは間違った姿勢であると言えるでしょう。
宗教が神を信じ、信仰心を大切にしていくならば、
互いに尊敬し尊重し、争うことなく
認めあっていくことが出来るでしょう。
そうしていくなら、神の愛を感じ、家庭の絆を
神の愛と共に醸成していくことができ、
理想の家庭が築いていけることでしょう。
そして、理想の家庭が基盤となった社会は、
理想な社会へと育まれていくはずです。
この世的なエデンを求めていくことが、
一神教の担うことであるとしたら、
再臨の時代の中において、再臨主の教えが
伝え広げられていくことによって、
ひとつの成果が導き出されるのでしょう。
もちろん、その成果、結果がどうなるのかは、
この世に生きる人々も手に委ねられているわけです。
プロテスタントの系譜は
アジアのキリスト教国である韓国に継承されて
いったと言えるでしょう。

この世界には、一神教以外の教えも存在しています。
西洋の歴史学の視点からみてみると
エジプト神話
古代エジプト紀元前3000年以前
ギリシャ神話
ギリシャミノア文明紀元前2000年以前
ヴェーダ神話→ヒンドゥー、ジャイナ、仏教、他
インダス文明紀元前2600年以前
中華→儒教、道教
夏紀元前2070年以前
日本神話→神道
日本国紀元前660年
といった感じで、多神教の教えが存在しています。
多神教の世界では、この世ではない世界
神々の世界のことが伝えられています。
または、仙人や神獣の住む世界のことなども
語られています。
目に見えない存在、スピリチュアルな世界について
一神教よりも広範囲で深く語られているわけです。
多神教から見たとき、一神教は、
神々の中の創造神の一神により啓示され導かれしものと
言うことになるでしょう。
もちろん、各聖典、神の御使いの存在も
肯定するものであることは変わりません。
一神教に伝えられる聖霊の叡智は、
この世において非常に強力で即効的な影響を
及ぼすことの出来る内容が多くあります。
その多くは、奇跡として伝承されていたり
魔法、魔術として伝承されていたりします。
ビジネスの世界で成功の手法として語られるものも
多くが、ユダヤの手法がベースとなっていたりします。
そういった意味からも、この世を整える役割の
多くを一神教が担っているように感じられます。

聖霊の叡智は、
モーセ Moyses の奇跡
ダビデ David の魔法
ソロモン Salomon の魔法
イエス・キリスト Yhoshuah ha-Mashiah の奇跡
その後は、
アレイスター・クロウリ− Aleister Crowley
マグレガー・メイザース Macgregor Mathers
アブラメリン Abramelin
と、魔法の叡智が継承されていきます。
そして、
その叡智は、アジアへと継承されていっています。
アジアのキリスト教国であるフィリピンの
心霊治療も、その叡智の系譜です。

目に見えない世界、
その存在を信じるのか、
信じないのか、
その差は、霊的に大きな違いとなります。
霊性を高め、スピリチュアル的な健康を求め、
魂の成長を望むのであれば、
まず、目に見えない世界の存在を
信じるところから始める必要があるでしょう。
目に見えない世界を信じられないなら
聖書の世界も信じることは出来ないでしょうから・・・。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 21:48| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月01日

無から有が生じる物質化現象「天の扉開き」

この世界は何のためにあるのでしょうか?
人生の目的とは何なのでしょうか?
そんな問いは、はるか昔から、誰かに語られて
きつづけてきています。
今の社会の中でも、同様の問いをしている人は
多くいることでしょう。

その答えはどこにあるのでしょうか?
科学は、宇宙誕生の謎について考えてきました。
科学は、物質の根源の謎について考えてきました。
しかし、未だに回答を見出すには至っていません。
宗教は、人の存在価値について説いてきました。
宗教は、生きることの意味と価値について説いてきました。
しかし、この世の中から不幸もなくならず不安もなくなりません。
なぜなのでしょう。
そういった謎の答えを知っている方がいらっしゃいます。
それは、神の世界の方々です。
神の世界の方々と会話できる方々です。
神の世界って何?
神様って本当にいるの?
そんな疑問を持つ人もいるでしょう。
神の世界は存在しているし
神様も存在しています。
そして、その教えも存在しているのです。

現代科学では説明出来ない現象があります。
しかも、科学的に扱う価値のある現象と言われるための
再現性、普遍性、客観性をもった現象です。
その現象は、無から有を生み出す物質化現象です。
その現象は、誰でも条件を満たせばみることができます。
その現象は、「天の扉開き」と呼ばれています。

「天の扉開き」とは何なのか。
どんな現象であるのか。
その現象はなぜ発生するのか。
科学的に捉えることは出来るのか。

百聞は一見にしかず

知りたいと思ったなら、自分自身の目で確認してみては
如何でしょうか。

天の扉開き
https://www.amanotobira.com/

天の扉開き : 真の 超常現象 物質化現象 を捉えた映像 No.001
https://youtu.be/31X3eTXLekA

https://youtu.be/50eFanb6Iv8?list=PLA_eLxzJ5UOnSCg4_a1te2sH7b0qtJ1TE

http://www.diamondblog.jp/official/aika_yoshioka/2017/09/24/%e5%a4%a9%e3%81%ae%e6%89%89%e9%96%8b%e3%81%8d/

人生を変えた現象「天の扉開き」(上巻)
http://amzn.asia/c9MjE5e

天の扉開き(あまのとびらびらき)
http://amanotobira.pw/

武運濃神社 Takehakobinojinja
http://takehakobinojinja.com/index.html

武運濃神社 宮司のブログ
http://takehakobinojinja.com/archives/category/blog
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 08:06| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

人生とは、天宙とは、真理とは、

人生を生きるとは何か、
その真理の扉へのステップでもある
数多くの現代科学では説明できない現象
科学信者にとっては、
偽科学、似非科学などとレッテル張りして
非難の対象なっていたり、
非科学的だから信じないと否定されたり
しかし、現象として、存在している事象であり
誰もが一定の条件下において経験可能な事象であるなら
その現象を否定し、偽とか似非とか言うことの方が
非科学的であると言えるでしょう。
手品でもトリックでもない自然現象であり
再現性もあり、客観性もあり、普遍性もある
無から有が生じる物質化現象
それは、現代科学の限界と
この世界の更なる広がりを示す
神からの贈り物であると言えるかもしれません。

この天宙のあり様と、
今の人生を生きることの意味と
人という存在がなぜこの様な状況にあるのか
そして、何を成すのが生きる上で
最終的な価値へと繋がっていくのか
真理の扉は、確かに用意されているのです。
しかし、その扉を開くか否かは
それぞれの責任として委ねられているのです。

無知から既知への段階
既知から行動への段階
それぞれに、それぞれの壁があり
重しがあり、超えなければならないものが
存在しています。
決断することの難しさ
何を優先すべきなのかの判断の困難さ
その苦悩の先に、
見えてくるものがあるでしょう。
今世は、唯一のものであることは
間違いのない事実です。
来世はまた別のものであるのですから。
だからこそ、今世において何をなすべきか
どう生きるべきかが、重要なものであり
大切なことであるということになります。

私、自身、まだまだ迷いもあれば
悩みもあるし、まったくもって情けなくなる
歩みしか出来ていないと感じることが多いです。
少しでも、良き善き歩みが出来るように
生きていければ幸いです・・・・・。


日本天の扉開きプジャ
https://www.amanotobira.com/blank-2

天の扉開き
https://www.amanotobira.com/
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 11:24| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

目に見えないものを信じることの大切さ

本日、日本有史以来初の出来事がありました。
幸いなことに、私は、その場に立ち会うことが出来ました。
とても光栄なことであり、とてもありがたいことであります。
本当に大切なことは何なのか、
主観と客観の垣根を超えた先にある真実と向き合うとき、
多様な視点、多様な考えを包括し受入咀嚼して認識し理解する
そこには主観も客観もなく真実があるのみと言う事。
悟ることへの第一歩未満かもしれないけれど、
その一歩が人生を大きく変えていくことになるのは
間違いのないことでもあるわけです。

神、聖霊、スピリチュアルな存在、・・・
目に見えぬものであても、
確かに、ここにいるのであり、
その事実は疑う余地はないものであるのです。
日本人の先人たちは、
そんな存在を敬愛し畏怖し、
共に暮らしていたのです。
ゆえに、禁忌や祭事が生まれてきました。
それらは、目に見えない存在と共に生きるための
知恵であり、学びであり、戒めであったのです。
人を守るための知恵、
幸せに生きるための知恵、
先人たちの教えには、そんな深い叡智を
伝承するものであたりするのです。

神社仏閣、日本は、神仏を信じ大事にしてきた民族でした。
しかし、明治維新後の西欧化、戦後の日教組教育の中で、
日本人としてとても大切な伝統や心情を忘れてしまっています。
恥じらいもなく無信仰と言い、目に見えない存在を否定し、
神聖なものへ敬意を払うことをしないで平然としている。
そんな日本人の状況が多くの今の日本の問題や不幸の背景にあり、
根本的な原因でもあることに、
はやく多くの皆さんが気がつく必要があるのだと言えるでしょう。
それを感じさせてくださる機会を得る事が出来ました。
ありがたいことでした。
そして、そのような機会を得たことに対する責任を感じさせられました。

目に見えるものとの出会いが
不幸なものにならぬように、
私達は、先人の知恵を思い出し、
学び直さなければならないのではないかと感じます。
多くの禁忌は、人々を守るための戒めであったことを、
祭事は、目に見えぬものに対する共存共栄の知恵で
あったことを、忘れてはならないと感じます。
自然と共に生きること、
それは、同時に目に見えぬ存在と共に生きることでも
あったことを、日本人の先人は知っていたのです。
そして、それらと善く共存するための知恵を学び
それを禁忌や祭事などの形で、伝承してきていたのです。
それを忘れてしまったとき、
人々は得てきた多くのものを失うだけでなく、
それ以上の負の影響を受けてしまうことになるでしょう。
そして、実際に、そうなっているのが
現代の日本社会であると言えるでしょう。
目先の対応では解決できない問題であることを知り、
その根本原因に目を向けること、
それには、まず、目に見えないものの存在を
信じ認めることからであると言えるでしょう。
本当の意味で、安心安全を得たいのであれば、
これを避けていくことは出来ないでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 05:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

禁酒・ベジタリアンのススメ

ラクシュミのプジャに参加する恩恵を賜って、
司祭からのお話を伺っているなかで、
あたらめて、信仰と神の叡智の学びにあたり
初歩ともいえる基本の第一歩としての禁酒、ベジタリアンの
生活の大切さを感じさせて頂きました。

お酒には、バッドスピリッツや、バッドエナジーが溜まります。
更にサタンや悪魔などがよってきやすく、
エンジェルや良い気などは去っていきます。
スピリチュアル的には最悪な状況を引き寄せる可能性が大です。
ゆえに、神と近い存在や、高いレベルの神であれば、
禁酒の教えは第一に入ってきます。
悪いカルマにもなるため、良いことなど霊的には何もありません。
深いところで、善き人生を歩みたいなら、
まずは禁酒からおすすめします。
ヨガや占いやヒーリングで、禁酒してない人は
霊的レベル低くいので注意が必要です。
更に、霊的レベルの低くケースはノンベジである場合です。
死体を食べる肉食は、霊的にはかなり低くなります。
肉はバッドエナジーやバッドスピリッツを吸収します。
また、死肉を求めてサタンやバッドスピリッツや
低級エンティティが集まってきます。
それを食らえば悪いカルマを増やすことになってしまいます。
悪いカルマを増やすのがいやであり、
運気を下げたくないなら、
死肉を食べることをやめるべきでしょう。
アストロノジー(占星術)、ワートゥスウ(風水)、
アーユルベーダ、ヨガなどの叡智について、
本来のきちんとした学びをしているなら初歩レベルで、
禁酒ベジタリアンであるはずです。
そうでない場合は、うわべだけ学んだレベルでしかないと言えるでしょう。
インチキではないものの本格的なものとは言えません。
神の叡知を学び、霊的により良い人生を歩みたいなら、
まずは、禁酒ベジタリアンになることであると言えるでしょう。

普段の生活の中でのお付き合いはさておき、
生活を共にし暮らし人生を共に歩むパートナーには、
やはり禁酒ベジタリアンであることが最低限の条件になりますね。
そこが一致していないと、一緒に暮らすのは無理になってしまいます。
霊的な影響は大きなものになりますから、
また、お互いの為にもならないでしょう。
そんな基本的なことを更に深く確認した場でもありました。
神の恩恵に感謝しつつ、自らの努力を怠ることなく
霊性修行の歩みを成していけたら良いなっとおもいます。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 08:51| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月01日

聖地〜大切にすべき場所

聖地〜大切にすべき場所
 聖地巡礼の旅の思い出

 イスラム教の聖地巡礼で、もっとも有名な「ハッジ」が
今年も、聖地メッカにて行われました。
日本ではあまり話題にはあがっていませんでしたが、
昨年の事故を踏まえて、今年は事故防止の警備が強化され、
さらに巡礼者の管理のために、コードタグを利用するなどの
IT導入も行われていたようです。

 聖地は信仰者にとっては、特別な存在です。
それを充分に理解した上で、訪れることが大切であると言えるでしょう。
特に注意すべきは、禁忌とされていることを守るということです。
旅行で訪れるような場合には、事前にそういった情報を
きちんと収集しておいて、禁忌を犯すことのないように
準備していくことが、最低限の礼儀であると言えます。
「郷に入りては郷に従う」という言葉があるように、
旅のマナーとして、意識しておきたいものだと思います。

 日本でも、四国八十八箇所巡礼が、60年に一度の丙申の逆打ちの
弘法大師空海との出会い伝説の年にあたるということで、
特別な賑わいをみせているようです。

 最近は、世界遺産になる聖地も多く、本来の信仰的な巡礼という形ではなく
観光などの楽しみの場になりつつあるところもあります。
聖地の霊的なレベルが低下しているところも多いのではないかと思います。
観光化の流れがあっても、敬虔な気持ちで訪れ礼を忘れない心をもった人が
多いのであれば、霊的な低下も少ないのでしょうが、
聖地への敬虔なる気持ちもなく、礼節もわきまえないような人が
多く訪れるようになったなら、善きスピリッツは去っていってしまいます。
多くの人に訪れてもらうことは確かに良いことではありますが、
それよりも大事なことは、聖地をきちんと護っていくことであるのを
忘れてはならないと感じます。

 私も、聖地巡礼の旅を体験したことがあります。
私は、ヒンドゥー、ジャイナのスワミに師事していますが、
そのスワミからのお誘いがあって、3年ほど前に
シヴァの住むと言われる聖なるカイラス山を1周するプラダクシャナの旅に
参加することが出来たのです。
巡礼の旅は、当然、禁酒、ベジタリアンの旅でもあります。
私の体験した聖地巡礼の旅について、少し紹介してみたいと思います。

 旅は、日本からバンコク経由でカトマンズに入り、ルンビニに移動し
お釈迦様の聖地を訪れるところからスタートしました。
ルンビニのホテルで1泊した翌日は、ホテルから近い
日本山妙法寺が建立した世界平和塔を参拝して、
カピラヴァストゥ跡を拝謁、ラーフラが出家したという寺院跡に立ち寄った後、
お釈迦様の生誕の地を拝礼しました。
マーヤ聖堂、アショーカ王の円柱、菩提樹と池、ホーリーな空気に包まれた地は、
まさに聖地というべきところでした。
その後、永遠の平和の火、タイの寺院を参拝して、再びカトマンズに移動して宿泊、
翌日からは、カイラスに向けての旅となりました。

 カトマンズからコダリへ、国境を越えて、ザンムー(2350m)に入り一泊、
ネーラム(3750m)へ移動し、高所順応のために三泊。
ネーラムから、トンラ峠(5050m)を越えてチベット高原へ、
ペクー・ツォ湖、ヤルツァンボ河を経て、サガ(4473m)に移動し1泊、
そこから、パルヤン(4575m)に移動して1泊、マユムラ峠(5182m)を越えて、
マナサロワール南湖畔、トゥゴ・ゴンバを経て、プラン(3800m)へ。
クジャ・ゴンパを参拝し、聖なる湖マルサロワール湖畔にて、
カイラーサを仰ぎみながら祈りを捧げました。
マルサロワール湖畔の寺院を参拝し、カイラーサ一周の起点の街である
タルチェン(4675m)へ移動。テント泊、ロッジ泊の旅でした。
旅は、チベット仏教における高僧ミラレパの足跡を追うような寺院参拝でもありました。
ミラレバは、マルパに師事して修行して、カイラーサで裸で12年瞑想し悟りを開いた方であり、
カイラーサに登った唯一の方であります。
壁画の語る意味や、寺院のいわれなどを学びながらの参拝は素晴らしい体験でした。

 タルチェンでの1泊後に、カイラーサ・プラダクシャナのスタートでした。
タルチェンから、タルチェンに戻るフルコルラ3泊4日のテント泊、徒歩巡礼です。
初日は、タルチェンから、チュク・ゴンパの下まで。
2日目は、河口慧海が感嘆した黄金渓を経てディラプール僧院の側まで。
3日目は、最大の難所であるドルマラ(5668m)を越えて、ジュン・チュ河沿い(5232m)まで。
4日目の最終日は、タルチェンまで。
火の鳥の恩恵などを受けつつ、
無事に、自分の足で歩いて、カイラーサ・プラダクシャナを完遂出来ました。
途中、熱心な信者の方が五体投地で巡礼されているのにも出会いました。
ドルマラの手前では朝日を浴びる美しいカイラーサを拝むことができました。
アディナータの降臨した場所であり、アジアの多くの宗教の聖地カイラーサを
拝むプラダクシャナの歩みは、やはり特別なものがありました。

 タルチェンで1泊し、翌日は、聖地ティルタプリ(4320m)へ、寺院を参拝し1泊。
フルコルラを成したあとは、ティルタプリから、パルヤン、
パルヤンからサガ、サガからザンムーへ移動して、
国境を越えてカトマンズへ、ほぼ毎日約250kmを車で移動する戻りの旅。
旅の終わりはカトマンズでの敬虔なる歩みでした。
パタンを訪ねて、クマーリーにダルシャンさせていただき、額に印(ビンディ)をつけていただきました。
丁度、ダサラのお祭りの期間であったので聖なる賑わいのある雰囲気がありました。
黄金寺、シヴァ寺院、旧王宮などを参拝して、ボーダナートへ、
その後、パシュパティナート寺院へ、葬儀の様子に立ち会うことが出来ました。
カトマンズからバンコク経由で日本に帰国。
長い期間の巡礼の旅でしたが、とても素晴らしい経験でした。

 巡礼の旅で感じたことは、
やはり、聖地は見物するところではなく、敬意をもって訪ね祈り捧げる場所、
畏敬の念をもって訪ねることが大切であるということでした。
信仰に基づいた聖地巡礼の旅、そこに関わるにあたっては、
やはり、心を清浄にし、畏敬と礼節を忘れることのないように対応していくことが大事です。

 世界遺産となったりした聖地についても、信仰に関わる場所であったなら、
やはり信仰という心の部分を忘れることなく、
単なる観光地というものではないということをしっかりと意識していくことが、大切なのではないかと感じます。
訪れる人も、迎える人も、信仰の心をわすれず接することが、
聖地を護っていくために必要なことなのではないでしょうか。


http://vpoint.jp/photogallery/73564.html
IMG_5399.jpg
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 00:40| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

ビッグバンは無く、風によって始まった宇宙

ビッグバンは無く、風によって始まった宇宙


宇宙年齢137億年
ビッグバンで始まったばかりの宇宙
とても小さくて、しわくちゃな宇宙
そのしわくちゃの宇宙に
アイロンをかけたように
引き伸ばして平らになった
平坦な空間
インフレーション理論による世界。
宇宙100兆分の1秒のさらに
1兆分の1秒くらいの年齢の時のこと
そして、宇宙は膨張を始め
どの部分も均一、
次第に暗黒物質同士が集まり、
重力によって星が形成されていく。
現在の冷たい宇宙とは違い熱かった。
ただし、
光や電波を使っても
38万歳より先は見えない。

本当に宇宙はビッグバンから始まったのか?
そうではない可能性もあり得るはず。
宇宙の始まりの公理をどう定義するのか。
それによって見えてくる姿は変わりうる。
偶然から始まったとするビッグバン公理。
しかし、本当にそうなのか?。
意思と意図があって始まったとする公理。
静かに爆発など起こらないで
始まった宇宙がそのにはある。
無から有が生じるという瞬間。
まさに宇宙創生の瞬間である。
四大元素のエネルギーを使い最初の物質が出現する。
濃く密度高く、今の宇宙を創生するための存在が
意思と意図をもって出現した瞬間である。
そして、宇宙は広がっていく。
宇宙100兆分の1秒のさらに
1兆分の1秒くらいの年齢の時に至り、
膨張し、この世の理によって
変化していき、今に至ることになる。
生命の星、地球を生みだすために。
それが、宇宙創造の物語。

無から有が生みだされる瞬間を、
今、私たちは目にすることが出来る。
まさに、宇宙創生と同じ原理がそこにはある。
それを知るか否か、
それを観るか否か、
まさに、それぞれの人が自身により
決めるべきことなのである。

宇宙創造の真理は、
まさに、
”求めよ、さらば与えられん”
という言葉が示す通りであって
それ以上でもそれ以下でもない。

今、この世界で、まさに宇宙の歴史を
一瞬に圧縮して顕現する現象が存在している
宇宙の始まり、
宇宙100兆分の1秒のさらに
1兆分の1秒くらいよりも以前から、
元素が生まれた瞬間に至るまで
その時間とその現象が、
地球上にて、再現されているのである。
それは、意思と意図によって
顕現されている。

この天宙、世界の姿の真実と
この現世、銀河宇宙の創造の真理は、
無から有が生じる現象のその先に
存在している。
もし、あなたが、天地創造の真実を知りたいのであれば
この宇宙の真の公理とは何であるべきなのかを
そして、宇宙創造の真の姿を知りたいのであれば
まずは、無から有が生じる現象を
その目で確かめてみるべきだろう。
その事実を、しっかりと見極めること。
自分自身の目で、その現象を確認すること。
すべては、そこから始まるのだから。


天の扉開き(PC)
http://www.amanotobira.com/
天の扉開き(モバイル)
http://amanotobira.pw/
天の扉開き : 真の 超常現象 物質化現象 を捉えた映像 No.001
https://youtu.be/31X3eTXLekA
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 18:35| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

健康と霊性の関係

「健康と霊性の関係」

 健康でありたい。誰もがそう願っているのではないでしょうか。
高齢社会となり、福祉や社会保障の観点からも健康に関する取り組みが
重要なものになってきています。
多くの人が、健康のまま逝くことが出来たなら、
社会保障にかかるコストの増大も回避することが出来ることでしょう。
よくメディアや政治家で取り上げられる社会保障と老齢社会の問題では
増大していく費用を、どの様に捻出していくのかという視点が多く
増大させないためにどうすべきなのかという視点が少ないように感じます。
「ピンピンコロリ」という言葉を聞いたことがある方も
いらっしゃるのではないでしょうか。
人は誰もが死の時を迎えます。逝くその時まで元気でいたい。
それこそが理想的な姿ではないのかっと言うことです。
であるならば、健康について、もっと考えていく必要があると言えるでしょう。

WHO憲章の前文における「健康」の定義は、
「Health is a state of complete
physical, mental and social well-being
and not merely the absence of disease or infirmity. 」
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、
 肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが
 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」
となっています。
しかし,1998年にこれではまだ不足ではないかとして
WHOに提案されたものがあります。
その定義は、
「Health is a dynamic state of complete
physical, mental, spiritual and social well-being
and not merely the absence of disease or infirmity. 」

 これは、健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、
肉体的にも、精神的にも、霊性的にも、社会的にも、
すべてが、動的に関連するなかで、満たされた状態にあることだと
いうことを示唆するものだと言えるでしょう。
4つのポイントと、それぞれに関連する事象を考えて
並べてみると...

社会的に健康であるということ
 =衣食住環境、教育、労働、権利と義務、絆
 =夫婦関係、親子関係、家庭環境、親族関係、師弟関係
 =人間関係(近所、地域、学校、会社、自治体、・・・)

肉体的に健康であるということ
 =身体の健康=物理的生物的な正常な機能動作=成長
 =運動、睡眠、飲食
 =怪我、病気、バラン

精神的に健康であるということ
 =心の健康=知情意、理性、感情
 =欲望、ストレス、ク―ラン、ブラックマジック

霊性的に健康であるということ
 =魂=ジッ制御レベル=脳活用レベル
 =カルマ、徳分、シャクティ、バラミ―
 =チャウカムナンウェ

これは、ひとりの人間としての健康を示すわけですが、
実は視野を広げて考えるのであれば、
法人や組織、団体、国家に対しても言えることではないでしょうか。
日本人は擬人化が得意ですが、
まさに、擬人的な視点をもって考えることの中に
健康で健全な社会、国家、世界があると言えるように思います。
平和や安全、安心を考えるとき、
やはり、利己心ではなく、利他心が中心となるべきであり
その考え方がそれぞれのレベルで当り前になっていくのであれば
すべては良い方向に向かっていくと言えるのではないでしょうか。
それらのバランスの根源を支えるものは何なのか、
聖者レベルの方を除くとしたら、
実は、それこそが、信仰心であるような気がします。
神の叡智と神の法の下にあって、
まだ幼き人の心を支える核心と言えるものが
信仰心であると言えるでしょう。
宗教というものは、実は信仰心を支えるための器でしかなく
単なるツールであるとも言えるわけです。
信仰心の質とレベルに応じた器を
神は用意されて下さっているのだと言うだけのことで
あったりするわけです。
神を知り、信じることすら不要になったなら、
信仰心というものすら意味のないものになってしまいます。
ただ、霊性をそのレベルにまで高めることは
とても難しいことであるわけです。
神の叡智を知ったからといっても、
それを体現したことにはなりませんし、
会得したことにもなりません。
叡智を自然体で意識することなく実践することが出来るようにならなければ
悟りの境地、解脱へと至ることはないのですから。
健康ということを考えるのであれば、実は、

 社会的 < 肉体的 < 精神的 < 霊性的

という感じの優先度になっていくと言えるかもしれません。
より高次元という意味においてです。
高次元のレベルで健康であれば、
多くの場合、低次元の健康は付随してきてしまったりもします。
ただし、それを実感することは、
また難しいことでもあったりするのですが・・・・。
人は、ひとりひとり異なる存在です。
従って、健康もまた、異なるということになってしまいます。
それぞれが、自分自身にとっての健康のあり方を
考えていくことが、大切であるということなのかもしれませんね。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:50| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月05日

私と宗教の関係を振り返る

私と宗教の関係を振り返る

 カルマなのか、なぜか今世においては、
宗教と関わり合いになる機会が多いように思います。
それは、生まれたときに未熟児で自分で呼吸をできず
医者から祖母が、もしかしたら覚悟しておいて下さいと
言われたという話を聞いたこともある人生の出だしから
運命付けられていたのかもしれません。
名付けにあたっては、父が神社にお願いして、
神主様に考えていただいた名前の候補の中から選んだそうです。
朱印のある命名書があったりしました。
日本の伝統的な慣習に従って、
七五三のお祝いもしっかりとしてもらってましたし
端午の節句のお祝いもしっかりしてもらってました。
お盆にはお墓参り、正月には初詣、欠かさない家庭でした。
そして、なぜか、幼稚園に入園することになり
星美学園付属幼稚園というキリスト教系の学校に
通うことになって、イエス様とマリア様に出会ったのでした。
朝の登園時、退園時には必ず園の門の側のマリア様の像に挨拶をして
月に一度は礼拝堂での礼拝に参加していました。
「父と子と聖霊のみ名のもとにアーメン」
この言葉を十字を切りながら毎日何度となく唱えていました。
イエス様とマリア様のお話しを聞き、
聖歌を歌うといったことが、日常の中にあったのです。
バザーや聖母行列、クリスマスといった行事や
学芸会でのイエス様御生誕の劇など、
今も記憶に残っています。
良いことをすると、シールを貼っていく手帳などもありました。
 サンタクロースの存在を信じ、天使の存在を信じ、
イエス様とマリア様に感謝のお祈りを捧げていた日々。
3年間の幼き信仰生活であったと思います。
公立の小学校に入っても、イエス様やマリア様の像に
お祈りしていました。
また、なぜが英会話教室の先生がクリスチャンで
あったりして、中学校に入ってからは、
プロテスタントの教会の英語塾に通っていたりします。
聖日礼拝に参列させていただいたこともありました。
 小学校高学年の頃にはコックリさんが社会問題になったり
学校の怪談話が流行ったり、心霊現象に関心を持つことが
多かったりしました。
超能力、エクトプラズム、心霊手術といったものに
興味をもって、本をいろいと読んだりしたものです。
エクソシスト、ノストラダムスの大予言、UFO、
ピラミッドパワー、魔術、占い、SF、妖怪、などなど
科学的に解明できるはずという想いを持ちながら
四次元図鑑や超常現象辞典などを読んだりしていたわけです。
そして、死を身近に感じたのは、まだ赤ちゃんであった従妹が
亡くなったとき、祖父が亡くなられたときだったと思います。
祖父が亡くなったとき、孫のひとりとして棺を運ぶのを
手伝うことになり、骨壺に骨を納めるお手伝いをしました。
少し不思議な夢にうなされる体験などをしたのもその頃でした。
小学校の卒業文集の夢にアインシュタインの様な科学者という様な
記述をしていたのは、科学で未知なる現象を解明したいという
想いがあったからだとも言えるでしょう。
中学では郷土研究部に所属して、市内の寺社仏閣や史跡伝承などを
調べたりもしていました。
羽衣伝説、牛石伝承、女体の森、草なぎの剣伝説、・・・
いろんな言伝えやお話が伝わっているものですが、
意外と知らないことが多いのだなということも感じました。
中学、高校とも、修学旅行は、奈良京都でしたので、
仏教に触れる機会も多くありました。
天理教や立正佼成会、創価学会などの冊子が何故か自宅にあり
読んだりすることもあったりしました。
中学高校時代は読書好きで、聖書はもちろんですが、
仏教やキリスト教関連の本やスピリチュアル系の本も
良く読ませてもらっていました。
 大学時代は、キリスト教系の宗教にどっぷり浸かっていた時期もあり、
真光や幸福の科学などの会に参加してみたりすることもあったりしました。
社会人になってからは、仕事に浸かっていた時間が
殆どになってしまってはいましたが、
神や超常現象、スピリチュアル関連への興味は変わりなかった感じです。
その後、仕事浸けの過負荷からか身体をこわすことになって
人生の流れが変わることになります。
ITC資格取得してそれまでとは異なる視点や人との関わりのなかで
ビジネスや社会を観ることが出来るようになり、
生活習慣病指導士などの勉強のなかで、カウンセリングや医療の分野に
触れることになったりもしました。
市民活動への関心から、一新塾へと入塾して、
そこでの出会いから、また大きな変化があったという感じです。
禁酒、ベジタリアンになり、
フィリピンの心霊治療を体験したり、
タイのスピリチュアルな事象を見聞したり
ルンビニやカイラーサへと巡礼したり、
神の叡智に触れ、信仰と宗教について、新しい視野が開けることを
実感させられることになったわけです。
超宗教という言葉がありますが、
神の叡智を知れば、その言葉は、所詮は人の視点で考えるレベルのことでしかないことがわかります。
神の世界では、当たり前であることも、人の世界では特別なことになってしまうということなのです。
現代科学が、まさに砂漠の中の小さじの一杯の砂にも及ばないものであることを実感させられます。
神道を尊び、天皇陛下を敬愛する日本人であり、
お釈迦様を尊する仏教徒であり、
イエス様を愛するクリスチャンであり、
ヒンドゥーの神々を拝するヒンドュー教徒、ジャイナ教徒であることは
何の矛盾もなく、当たり前のことであるという認識と意識が
私の中に根をおろしてします。
そして、それらは何ら矛盾するものではありません。
現代科学や現代医学の位置付けにしても
ヒーリングや超常現象にしても、
この世において、実際に存在している現象は、現象として認めるべきであり
それらの現象は、視点を変えてみれば、矛盾するものでもなく
神の叡智の中に包括されるものでしかないということなのです。

先だって、天の扉開きツアーに参加することが出来ました。
http://www.amanotobira.com/
神の世界と現世が繋がり、神の世界から流れ出るエネルギーが
ある神聖なる存在の介在により、
物質を生みだすという現象です。
何もない空間から、物質が出現してくるのです。
それは、トリックでもなければマジックでもない
事実として存在している現象であることは、
立ち会えばはっきりと認識することが出来ます。
ニュートンは、林檎の実が何故落下するのかということから
万有引力の法則を導き出したと伝えられます。
ガリレオは、天体の動きを精密に観測し続けた結果としての
データから、地動説ことが正しい姿だと知りました。
科学というものは、存在している現象を認めることから
始まっているのだと言えるでしょう。
であるなら、この物質が出現するという現象を認めることから
どんな法則が導きだされるのか、科学者に問われていると
いえるのかもしれません。
事実として存在している現象が、現状の法則に合わないから
見て見ぬふりをする。その姿勢は、ニュートンやガリレオを批判し、
アインシュタインを批判した愚かな科学者と同じであると言えるでしょう。
事実と正面から向きあうことが科学者のあるべき姿であると
いうことなのだと思います。
ぜひ、体験すること、自分の目で確認することをお勧めします。
そこから何を感じ、何を得るのかは、それぞれの皆さんの
責任分担となるのですけれど、
知れずしては何も始まらないことは真理であり事実ですから。
ちなみに、現代科学では説明できない事象も、
神の叡智で説明することは可能です。

多くの宗教と出会い、信仰を知り、人生を歩んできましたが
残された今世の人生を、どう歩んでいくのか、
常に、問われているのだなっと感じる次第です。
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月15日

目に見えないものを信じるということ

「目に見えないものを信じるということ」
 〜信仰の価値と信仰への誘い〜


「お天道様がみているよ」
「天罰が下るよ」
「雷様がお臍をとりにくるよ」

 日本人が幼いころにきかされる言葉には
目に見えないものの存在が語られているものです。

目に見えないものの存在を信じるか否か、
それは、まさに信仰に関わる部分であると言えるでしょう。
宗教の根源は、まさに信じるか否かにあるのです。
神様の存在、仏様の存在を信じるかどうかということなわけです。

もし、あなたが、神様や仏様を信じているなら、
無宗教ではないということでもあります。
何らかの信仰を持っているということになるからです。
世界において、無宗教と言えば、無神論者か唯物論者だと
認識されてしまうのが一般的であると言えるでしょう。
ところが、多くの日本人には、そんな感覚がありません。
戦後の教育の失敗が、安易に無宗教という言葉を
選ばせていると言えるのではないのかと感じます。

もし、あなたが無宗教だと言いながら、
神社にお参りし、仏様に手を合わせているのであれば
きっと、偽善者であると思われてしまうでしょう。
国際社会で活躍したいのであれば、
きちんとした宗教観をもっておくことが大切です。
お墓参りをするのがお寺であるなら、
無宗教と言わずに、仏教ですと言えますし、
神棚があって、葬儀を神式で行うのであれば
神道ですと言っておくのが良いでしょう。
もちろん、自分は神も仏も信じない、無神論者である
唯物論者であるというのであれば、
無宗教と言って良いのは当然です。
しかし、多くの国では信頼されないことでしょう。
表向きはきちんと対応してくれるでしょうけど
本音の部分では、一歩距離を置かれてしまっているということです。
何故なら信仰なきものは簡単に裏切るだろうと思われてしまうからです。
お金の切れ目や利益の切れ目が縁の切れ目となる人だと
義理や恩など無関係な人であるのだろうと思われてしまうのだと
言えるでしょう。
ビジネスライクでは付き合えるとしても
そこから先は無理であるという印象を持たれるということなのです。
過去の歴史が物語る無宗教、共産主義の世界で行われた
粛清や裏切りの数々が、信用出来ないという心情を
つくってきたとも言えるかと思います。

人は弱いものです。
欲望に流され、道徳を忘れて、過ちを犯してしまうことがあるのです。
その過ちを出来るだけ犯さないようにしてくれるもの
それが、信仰であると言えるでしょう。

目に見えない存在を信じるのであれば、
他人が見ていなくとも、見られているのだと思えるのです。
そして、人は、誰かに見られているという環境においては
理性が働きやすくなるものなのです。

信仰の価値とは、まさに人を理性的にすることにあると言えます。
そして、そのことが、平和の礎ともなるのです。
宗教と言われるとちょっと引き気味になってしまうのであれば
まず、目に見えない存在が確かにいるのだということを
信じてみることから始めてみれば良いでしょう。
それが、信仰への第一歩となることでしょう。
より崇高なもの、より愛することの出来るもの
そんな存在を信じているとき、
人は、その存在に対して畏敬の念を持ち、
裏切ることは出来ないという思いを持つことが出来るのです。
そして、その事が理性的な行動を促すことに
繋がっていくのだと言えるでしょう。

神様でも仏様でも御先祖様でも良いのです。
幽霊でも妖怪でも宇宙人でも良いのです。
目に見えない存在、人ではないけれども人の様な存在、
人以上の存在が、確かにいるのだと信じてみることが
人生をより深く、より充実したものにしていくことへと
繋がっていくのだと言えるでしょう。

信じられないのであれば、
それらの存在と出会うことの出来るように
ちょっと行動してみては如何でしょうか。
まずは、出会ったことのある人の話を聞いてみることでも
良いと思います。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 13:45| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月17日

日本人の多くが欠けている宗教への理解

「日本人の多くが欠けている宗教への理解」
 〜なぜ、今、宗教について語るのか〜


あなたの宗教は何ですか?
この問いに対して、あなたは何と答えるでしょうか。
多くの日本人が、特に気にもせず考えもせず
「無宗教です」と答えてしまうのかもしれません。
ところが、その一方で、多くの人が、
お正月に初詣をし、七五三のお宮参りをし、
聖バレンタインデー、ハロウィン、クリスマスを祝い、
お盆にお墓参りをし、お祭りにお神輿を担いだり
していたりするわけです。

日本の戦後の失敗のひとつに、宗教に対する意識改悪があるといえます。
それは、戦前の日本の強さを恐れた戦勝国の方針と
神を否定する唯物共産主義の日教組によってもたらされた不幸であるともいえます。

しかし、世界に視野を広げたとき、
宗教への理解は非常に重要なものとなっているのです。
国によっては、信仰している宗教を確認して
無宗教であると信頼されないということも実際にあります。
戦後の日本人の国際性の欠けている部分のひとつは
間違いなく宗教への理解不足にあると言ってよいでしょう。
戦後からの脱却のためには、まさに宗教への理解を見直すことが
必要となっているのだと考えられます。

日本人は、非常に信仰深い民族です。
自然との共存共栄のなかで、目に見えない存在を信じ、
畏れを抱き、崇拝し、大事にしてきた歴史があります。
自然信仰をベースとした日本の文化の礎ともなっているのが
神道であると言ってよいでしょう。
大樹や動植物、死者をも神として祀ることが行われきていたわけです。
神話の世界から、身近な生活に至るまで、
目に見えない存在と共に生きてきた民族であったわけです。

仏教、儒教、道教、キリスト教と
海外から伝わってくる宗教に対しても
排斥するのではなく、受け入れて共存するというのが
基本的なスタンスであったわけです。
政治が絡むと例外的な対応が成されてきたことも確かですが、
基本的な部分においては、受容するというのが
日本人の信仰感覚であったと言ってよいでしょう。
結局のところ、歴史を振り返ってみれば、
日本人の宗教観を崩していったのは、
政治との関わりの中と教育の中にその要因が
あったのだと感じます。

まず、江戸時代における初期のキリスト教弾圧と
神仏を政治に利用して民衆を管理した寺社制度によって
宗教が大衆化に向かうことになってしまいます。
そして、明治維新、廃仏毀釈で、神道を国教として
天皇を現人神に奉りあげてしまいます。
その結果としての戦争と敗戦、
占領軍によって、政教分離が行われると共に
教育の中から宗教的なものが排除されてしまいます。
その結果、教育は唯物的なものとなってしまい。
宗教的な教育が希薄となっていきました。
宗教は道徳と密接に関わっています。
道徳意識の低下が、実は日本の現代社会における
多くの問題の根底に流れているのではないでしょうか。
道徳意識の向上させていくためのひとつの要素として
宗教的な意識の見直しや教育の在り方を考えていくことが
必要であるように感じます。
これは、単に宗教界だけの問題ではなく、
教育界の問題でもあり、地域社会の問題でもあり、
ひとりひとりの個人の問題でもあると言えるでしょう。

ここまでの話は、あくまでも私の個人的な歴史観であり
社会や宗教に関するとらえ方にすぎません。
そうではないと思われる方もいらっしゃるでしょう。
もちろん、宗教観や歴史観は、個々に異なるものでしょうし、
異なっていることは悪いことではないと考えます。
多様性があるのは、当然なことです。
ただし、異なるからという理由で、
反目し合うことに価値があるとも思っていません。
それぞれの視点を認めつつ、その中で共有できるものを
互いに確認し、尊重し、認め合っていくことが
大切であるのだと言えるでしょう。

宗教への理解と信仰への意識について、
今一度、ひとりひとりが自分のこととして
見つめ直してみることが必要になっている時代であると
感じています。
だからこそ、宗教観と信仰観について、
感じること学んだこと考えたことを、
お伝えしていくことに価値があるのだと思っています。



多くの日本人に欠けている宗教への理解
http://vpoint.jp/column/63781.html
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 13:33| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする