2019年07月17日

カオパンサー(入安居)を迎えて

カオパンサー(入安居)を迎えて

今年のカオパンサーは、仏暦2562年7月17日。
雨季のある地域では、雨季の期間中は出歩くのは大変でもあり、
そのために、僧侶の皆さんも托鉢に出ることなく
寺院の中で修行に勤しむという形になったようです。
雨季は、生き物が多くなるので、出歩くと殺生の可能性が
多くなるというのも、ひとつの理由ではあるでしょう。
もし、雨季がなければ、パンサーという形は
別なものになっていたのかもしれません。
7月の満月の日の三宝節(アサラハブーチャ)の翌日から
パンサーの期間にはいるということで、
その最初の日が、カオパンサー(入安居)です。
そして、旧暦11月の満月の日にパンサーの期間が終わりを
迎えます。オークパンサー(出安吾)です。
サンガにて修行に集中する期間ということで、
在家の皆さんも、しっかりと五戒をまもって
過ごすようにしたいものですね。
カオパンサーは、タイでは祝日であり、禁酒日でもあるそうです。
とても良いことだと思います。
これを機会に、本格的に禁酒することをお勧めしたいですね。

【2019年 仏日】
1月5、13、20、28日
2月4、12、19、27日
3月5、13、20、28日
4月4、12、19、27日
5月3、11、18、26日
6月2、10、17、25日
7月1、9、16、24、31日
8月8、15、23、29日
9月6、13、21、28日
10月6、13、21、27日
11月4、11、19、26日
12月4、11、19、25日

霊性修行、魂の成長のために、
カルマの解消、徳分を積む。
マントラを唱える。ダルマを学ぶ。
瞑想をする。
カルマを増やさない(五戒を守る)。

すべては、自分自身の魂の成長のためであり、
地獄へ逝く道から逃れるためのものであるわけです。
この世は苦に満ちた世界であり、
それは、苦の中でこそ、大きな成長が得られる
修行の場であるから故のことなわけです。
お釈迦様が、覚り悟り、真理、ダルマを
知ったとき、輪廻の輪から逃れるすべが
明らかとされたわけです。
輪廻の輪は、非常に長い周期です。
地獄で苦しむ時間は、何兆年という単位です。
この現世での時間は、非常に短いものですが
非常に大きな価値をもった時間でもあります。
カルマ解消、徳分を積む、それが容易に
出来る世界となっているからです。
折角、この世界にいて、大いなるチャンスを
得ているのに、カルマ解消、徳分を得ること
なくして、カルマを増やし、徳分を消費するだけなら
なんともったいなく、無駄なことだといえるでしょう。
動機を転換する機会のひとつともいえる
カオパンサーの日に、
自分自身の魂の為に、何か新たな一歩を
歩みだせたら素晴らしいと思います。
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 20:46| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月16日

三宝節(アサラハブーチャ)の日に

三宝節(アサラハブーチャ)の日に

 今年、仏暦2562年(令和元年、西暦2019年)の
三宝節(アサラハブーチャ)は、7月16日です。
お釈迦様が、覚りを開き(タッサルー)、
5人の弟子に初めて説法をされた日です。
ゴータンヤ、ワッパ、パティマ、マハーナーマ、アッサジの
5人は、お釈迦様の説法をききアラハンとなられました。
サンガが成った日であり、
仏法僧の三宝が揃った日ということで、
三宝節として、お祝いされています。
タイでは、仏教の重要な行事が行われる日を
国の祭日としています。
三宝節(ワン・アサラハ・ブーチャ)も
祭日となっています。
官公庁や民間企業は全て休日です。
とても素晴らしいことだと思います。
この日にタンブンが出来ることは素敵です。
日本には、タンブンの出来る場所が少なくて、
簡単にはタンブンに行けません。
非常に残念でなりません。
タイでは、この日は禁酒となります。
五戒の教えのひとつをしっかりと守る日となっているわけです。
本当は、常に禁酒であることが望ましいのですが
それでも、仏教の重要な日を禁酒で迎えるということが
国レベルで定められているのは素晴らしいことです。
国の霊的守護とも深く関わるものとなっているでしょう。
(日本はその意味では霊的には高くないです)
明日は、カオパンサー(入安居)です。
出家僧の寺院内での修行の始まりの日です。
オーク・パンサー(出安居)の日を迎えるまで、
修行が続きます。
タイの方々の中には、禁酒などを行って、
自分の日々の生活を改めたりしている方もいらっしゃるようです。
五戒を守ってきちんと生活をし、
徳分を積む日々をおくるように努力することは
とても尊く素晴らしいことです。
パンサーの期間は、自分自身を見つめ直すよい機会であるとも
いえるでしょう。
ぜひ、多くの人が、この機会に、
禁酒、ベジタリアン生活をおくってみて欲しいと願います。
もちろん、この期間に限らず、毎日の生活の中で
五戒を守って過ごすことの方が、ずっと良いことは
間違いありません。
私も、五戒を守って日々をおくるよう努力を続けています。
少なくとも、禁酒、ベジタリアンという基本は
しっかりと守って生活しています。

五戒[パンチャ・シーラ]

不殺生戒(ふせっしょうかい)
  - 生き物を故意に殺してはならない。
  いかなる生き物も、故意に殺傷しない。
  殺傷に加担するような行為や他人に促すような行為はしない。
  ベジタリアン(殺肉を食べない)。禁釣り。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
  - 他人のものを盗んではいけない。
  与えられていない物を、故意に我が物としない。
  過分な欲をもたない。搾取する行為を促すような行為をしない。
  禁ギャンブル(禁:パチンコ,競馬競輪オート,宝くじ)
不邪婬戒(ふじゃいんかい)
  - 不道徳な性行為を行ってはならない。
  不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。
  過分な欲望をもたない。子孫繁栄のための婚姻と誠実な性関係を保つ。
  姦淫の禁止。不自然な愛欲(ホモ、レズ、バイ、マゾ、サド等)の禁止。
不妄語戒(ふもうごかい,)
  - 嘘をついてはいけない。
  偽りの言葉を語らない。人を騙さない。
  法を破らない。酷い言葉や相手を傷つける言葉を発しない。禁ヘイトスピーチ。
  ダルマを大事にする。
不飲酒戒(ふおんじゅかい)
  - 酒類を飲んではならない
  アルコール類を飲まない。禁酒。
  人を陶酔させるもの全般について慎む。禁煙。禁麻薬。

五戒は、解脱へ向かうための第一歩でしかありません。
入門の中の入門というレベルの戒めです。
そして、それは律ではなく、戒なのです。
つまり、動機が重要であり、本人の意思をもって行なうことが
大事なのです。
したがって、守らなくても、目に見える罰があるわけではありません。
ただし、目に見えない負の蓄積はあります。
カルマが増えていくことになるでしょうし、
徳分が少なくなっていくことになるでしょう。

解脱へ向かえないということは、地獄へ向かうということでもあります。
地獄に行くのがいやであるなら、
まずは、五戒を守ることからはじめることが大切です。
そして、徳分を積んでいくことが大事です。
五戒を守り、更に、精神を高めていくための手法は、
お釈迦様がダルマとして、残してくださっています。
その教えを知る方を師とすることが出来る縁があれば幸いです。
もちろん、サンガのあるところで出家修行するという選択もあります。
瞑想、マントラ、ダルマの学び、
その先に、この世の苦からの解放=解脱があるわけです。
ほとんどの人が、折角、修行の場であるこの世に
しかも、修行のできる人として生まれてきたのに
その貴重な恩恵を無駄にして、地獄に逝ってしまうことに
なってしまっています。
六道輪廻の輪から抜けるために、
まずは、五戒を守ることろからはじめてみませんか。

三宝節(アサラハブーチャ)という
善き日に、人生について、
この世界で生きるということの意味について、
考えてみる機会とするのが良いのではないでしょうか。
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 20:10| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月08日

一神教と信仰と今世での意味・・・・

一神教と言われる宗教は、世界の大きなエリアを占めています。
しかし、その教えの源泉は、同じものであったりもしています。
一神教といえば、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つであると
言って良いでしょう。
共通の聖典として、聖書があります。
もっとも古いユダヤ教から、
もっとも新しいイスラム教まで、
一神教は、ナイル、チグリスユーフラテスの大河文化圏を
中心にして、広がっていったものであるといえるでしょう。
もともと、そこにあった多神教の中から出てきたものでもあります。
神話として伝承の残る信仰は、基本的に多神教です。
神々と人々との関係、神々のお話などが神話となっているからです。
一神教は、天地創造から始まります。
一神教の神は、創造神であるということです。
ユダヤ教において、聖書は最初に編纂されます。

紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群で
全24巻から成り立ち、
律法(トーラー : Torah)、
預言者(ネビイーム : Nevi'im)、
諸書(ケトゥビーム : Ketuvim)
に分類されていて、
タナハ (Tanakh ヘブル語)と呼ばれているものです。
律法(モーセ五書)を中心にして、
預言書(神からの啓示である預言の記述)、
歴史書、諸書(詩、知恵文学)などから構成されています。
キリスト教においては、旧約聖書として位置付けられています。
現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本にあり、
紀元前4世紀頃からギリシア語訳が作られるようになっています。
(アレクサンドリアで編纂された七十人訳聖書など)
キリスト教では、旧約聖書に、イエスキリストの言葉や奇蹟を
弟子たちがキリストの死後書いたものを編纂して、新約聖書としています。
「約」とは、神との契約のことで、2世紀頃からキリスト教徒の間で
呼ばれ始めたものです。
新約聖書は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって
書かれたものであり、
福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、
言行録、使徒言行録、書簡(パウロ書簡・公同書簡)、
黙示録、外典、から構成されています。
アラム語(または、ヘブライ語る)と、
「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で
公用的に使用されていた口語的なギリシア語で書かれて、
早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されています。
英訳版としては、1611年に出版された
キング・ジェームス・バイブルがもっともよく知られています。
聖書は、イスラム教においても、アラビヤ語に翻訳されて
モーゼ五書「タウラー」、詩篇「ザブール」、
福音書「インジール」と呼ばれ、教典として
クルアーンに準じるものとして扱われています。
イスラム教では、西暦610年頃にムハマドのところに、
大天使ジブリール(ガブリエル)が現れて、
与えら得れた啓示の内容が口伝で伝えられ、
初代から3代の正統カリフのもとで編纂され正典化されています。
その後に、キリスト教、イスラム教は、分派していきます。
その様な中で、新たに聖典として編纂されたものもあります。
それぞれに、聖なるものであることは当然ですが、
基本となる本流の聖典は、聖書とクルアーンであると
いえるでしょう。

一神教系の教えの中には、聖霊の叡智と呼ばれるものがあります。
モーセ、ダビデ、ソロモンが使った奇跡と呼ばれた力に関するものです。
一神教は、この世における幸せについて求めるものが中心となっています。
理想の国は、あくまでもこの世の国です。
天上の天国と同じものを地上にという欲求に留まっているともいえます。
したがって、この世的な幸福を求めるために必要な教えが
多く語られています。また秘法として伝えたれているノウハウも
この世において役に立つものが多かったりします。
まず神を信じ、この世ではない天上世界があることを信じること
そして、幸せになるためにどうすれば良いのかについて
この世のレベルでの視野から、まずは学んでいくという感じの教えと
いってよいのではないでしょうか。
しかし、それゆえに、悪魔やバッドスピリッツの影響も受けやすく
同じ神を信じるはずのもの同士が争うという歴史を繰り返すことに
なってしまっています。
この世界を平和に、より生きやすく、安心していられるものとするために
為すべきことは何なのかを、伝える信仰であるともいえるでしょう。
憎しみをこえ、兄弟姉妹の絆を再認識するために、
同じ神のもとで、争いを無くしていくという目的を為すために
存在しているのだともいえるでしょう。
創造神がもっとも上の教えであることから、
神の叡智としては、教えられていないことも数多く存在しています。
創造神が学びたいと願う教えが、伝えられていないのは、
仕方のないことだといえるでしょう。
しかし、神を信じない、この世以外の世界があることを信じない、
そういったレベルの人々、唯物主義や共産主義といったレベルより
上のレベルであることも間違いありません。

病気などの原因のひとつに、悪魔やバッドスピリッツ、
バッドエナジーによるものがあります。
それらを取り除くことは、とても大事なことです。
そのための叡智が、聖霊の叡智として伝えられています。
オラシオン、シール、などがそうです。
その叡智を使いこなすのがエクソシストであり、
心霊手術などを行なうヒーラーであるわけです。

さて、天上世界は、創造神の皆さんだけがいらっしゃるわけではありません。
しかし、複数の神々の存在を信じることよりも、
唯一神を信じることの方が、霊性レベルは高い必要がありません。
魂の成長のレベルによって、カルマや徳分の状態によって、
唯一神すら信じることが出来ない人々もいれば、
唯一神なら信じることが出来る人々もいるということなのです。
では、神々を信じることが出来るのであれば、
この世の存在理由と、人がなぜこの世界に生まれたのか、
そして、死後、どうなるのか、その部分について、より深く
啓示され、叡智が存在しているものに接したときに
信じられる人と信じられない人がいるのも当然のことであるわけです。
それは、悪いことでもなければ、非難すべきことでもありません。
ただ、今世における定めとして、そうなっているだけということです。

黒人の世界が自然信仰中心であり、
白人の世界が一神教中心であり、
アジアでは多神教が中心であるのも、
それなりの理由があるからだといえるでしょう。
その事について、一神教は触れられてはいません。
民族部族という単位で語られる内容が中心だからともいえます。
一神教も、アジアへと流れるなかで、
より多神教の教えに近づいていっています。
また、一神教から多神教の中に叡智に触れるチャンスも
多くなっていっています。
より深い叡智に触れることが出来る縁が、
強くなっていくからだともいえるでしょう。

宗教の役割は、まず、この世が、現世のみではないこと
神様の世界、死後の世界が存在していること
スピリチュアルな存在が実存していることを
知らしめることにあるといえます。
その上で、この世における人生をどう生きるのが
善い生き方になるのか、あの世にいったときに後悔せずに
すむのかといったことを伝えているといえるでしょう。
この世の叡智では説明できない事象や現象について
聖霊の叡智や神の叡智を通して説明したりもしています。
それぞれの段階に応じた叡智が与えられていると
いえるでしょう。
そして、もっとも深い叡智が、
プラプッタジャウによるダルマであるわけです。

どの宗教が悪いとか良いとかなどはなく、
どの宗教が駄目だとか優れているとかでもありません。
それぞれの宗教、信仰は尊ばれるべきであり
敬意をもって接するべきものであるといえます。
それぞれの宗教や信仰には、それぞれに役割があり
導くべきレベルの魂が存在しているのです。
もちろん、より深い叡智に出会えて、
それを学ぶ事ができれば素敵ですし、
解脱への悟りを得ることも出来るでしょう。
それゆえ、縁を大事にして、チャンスを逃さないように
することが大切ということにもなってきます。

信仰を持つことは、人生をより深く意義あるものにするための
第一歩であるといえるでしょう。
信仰を持てない人は可哀想です。
カルマを増やし、徳分を減らすだけの人生に
なってしまったら、来世は悲惨なことになってしまうのですから。
そして、どんな信仰であっても、敬意をもって接するべきでしょう。
敬意をもたず卑下したり馬鹿にしたりするのは
カルマにしかなりません。

そして、出来うるなら、ダルマの教えを学び、
輪廻の輪から抜け出して、苦の世界から脱することが
出来る道を歩めることがもっとも恵まれた道であると
いえるでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 07:41| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月06日

日本仏教とお釈迦様の教え

日本仏教とお釈迦様の教え

日本仏教の教えをわかりやすくまとめられたサイトがあります。

仏教ウェブ入門講座
http://true-buddhism.com/
日本仏教アソシエーション
『歎異抄』の解説サイト・歎異抄.com
『正信偈』の解説サイト・正信偈.com

残念ながら、ダルマの教えが日本に正しく伝わっていないことが
よくわかる内容となっています。
上座部仏教を小乗仏教として、卑下しているのも
残念なことであったりします。
お釈迦様の教えを理解するなら、他の宗教や宗派に対して
敬意をもって接するのが当然なことであるとわかっているはずです。

さて、仏教についての説明にあたって、
2つの流れの違いを解説しているサイトが
いくつかあります。

「上座部仏教」と「大乗仏教」の違いとは?
https://eyespi.jp/l00245/

「大乗仏教」とは何か?思想や経典を解説!上座部仏教との違いも
https://biz.trans-suite.jp/14743

これで解決!「大乗仏教」と「上座部仏教」の違い
https://gimon-sukkiri.jp/buddhist/

どれも、基本的には同じような解釈をしていますが、
やはり、本質を捉えてはいないと感じます。
なぜ、本質を捉えられないのでしょうか。
それは、仏教を既存の書物から分析しているからであり
西洋科学的な分析手法をもって捉えているからだと
いえるでしょう。
お釈迦様の教えの本質は、ダルマです。
ダルマの教えには、他者を救済するというこの世的な視点は
ありません。この世的な視点は、どちらかといえば
キリスト教、一神教の教えに近いものです。
儒教や道教なども、この世的な教えに近いといえるでしょう。
お釈迦様の教えの根本となるダルマを、より正しく伝えているのは
上座部仏教であることは間違いありません。
お釈迦様は、インド、ネパール地方で生涯を過ごされています。
使われていた言葉は、サンスクリット語です。
お釈迦様の教えを正しく理解するためには、サンスクリット語で
学ぶことが良いのは当然のことであったりします。
言葉の翻訳や、言葉の伝播によって、その内容は変遷してしまいます。
つまり、正しく伝わらないことが多いということなのです。
上座部仏教は、サンスクリット語から、とても類似の多いバーリ語へ
伝えられて、今日まで至っています。
言葉による情報の欠損はほとんどなく伝承されているといえます。
大乗仏教は、サンスクリット語から中国語という大きな翻訳を経ています。
表音文字から表意文字への翻訳によって、
音が重要であるマントラについては、正しく伝えることが出来ませんでした。
お釈迦様のマントラは、大乗仏教で正しく唱えられることはありません。
教えの内容については、薄められてしまってはいるものの伝わっています。
中国にて、儒教や道教の影響を受けて、変化してしまった部分が
多くあることも事実です。
そして、日本へと伝わるにあたっては、中国語から日本語へという
翻訳が行なわれることになっています。
日本に仏教が伝来したとき、日本では、もともとの信仰であった神道に
中国から伝来していた、儒教、道教に加えて、仏教が取り入れられました。
その統合の流れと、日本文化の中で変化していったものが
今日の日本仏教であるといえるでしょう。
大乗仏教は、お釈迦様の教えを大衆化したものであるともいえます。
したがって、ダルマの教えのなかの入門的なものしか伝わっていない
そんな感じになっているともいえるでしょう。
お経や念仏を唱えても成仏などできません。
成仏するということは、輪廻転生の輪から外れるということです。
解脱するということなのです。
そのために何をすべきなのか、ダルマは教えています。
お釈迦様は、苦に満ちた輪廻の世界から脱する方法を悟られて
その方法をダルマとして語られていたのです。
ダルマの教えは、万人に通じるものです。
しかし、その教えの内容を実践するのは、非常に大変です。
特に、この世の中に染まっている人にとっては高いハードルであると
いえるでしょう。出家は、その高いハードルを低くする方法であると
いうことです。それは、大乗仏教が登場する前から変わりません。

日本仏教は、日本に伝わり、何度か変化してきています。
それは、日本における信仰のあり方の変化とも関連するものです。

日本の信仰は、
神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教であり、
伝統的な民俗信仰・自然信仰です。
神道「かんながらの道」と呼ばれ、巫女や神官によって、
八百万の神々に祈りを捧げ、自然と一体となって、
日々の生活を過ごしていく基盤となっていたといえるでしょう。
大和時代に、仏教を始めとして宗教が伝来して、
神道と共に受け入れられていきます。
国家安寧のために、神事と共に受け入れられていくわけです。
武家社会になって、神仏は大衆統治のために利用されていきます。
奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教と、中国からの教えの伝播と共に
国内の仏教宗派が立ち上がっていきます。
そして、江戸時代になり、寺社奉行によっての神仏管理と
国民管理が整えられることになります。
寺社が政治と深く結びついていくと共に、生活の中の一部として
大衆化していくことになります。
明治維新によって、江戸時代の利権が剥奪され、
神道による国家宗教という枠組みにより、廃仏毀釈をはじめとした
弾圧、迫害が行なわれ、その中で、寺社として生き残るために
更なる大衆化が行なわれていきます。
戦後、宗教的要素を日本から剥奪するためにGHQによって
行なわれた様々な施策によって、日本の信仰は更に衰退します。
日本仏教も、同様に衰退していくことになります。
そんな状況で、日本人の多くが、無宗教を名乗るようになって
いってしまったわけです。
そして、寺社は衰退していっているわけです。
消えていく、神社やお寺の問題が取り上げられるようになっているのが
現代社会の日本の実情であり、
日本の信仰の劣化の状態であるということになります。

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<日本の歴史/世界の歴史―抜粋>
大和時代 前660年 - 710年
前624年-前544年頃 旧暦6月満月の日 お釈迦様生誕、正覚、入滅
前552年9月28日 孔子生誕 − 前479年3月9日 孔子逝去
前469年頃 ソクラテス生誕 − 前399年4月27日 ソクラテス逝去
紀元前250年頃 ギリシア語翻訳「七十人訳聖書」(現存最古旧約聖書のひとつ)
紀元前6年から紀元前4年頃 イエス・キリスト生誕
前2〜1世紀頃 死海文書(写本) 編纂
30年頃 イエス・キリスト逝去
238年 「魏志倭人伝」(景初2年6月)親魏倭王と為し、金印紫綬を授ける。
4世紀 道教伝来
513年 継体天皇の時代 百済より五経博士が渡日 儒教伝来
538年(戊午年、宣化天皇3年)仏教伝来
5世紀頃 秦河勝など 景教伝来
570年頃 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ生誕
飛鳥時代 592年 - 710年
632年6月8日 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ逝去
神仏習合 神身離脱、大乗密教 国家鎮護 熊野信仰 怨霊信仰
本地垂迹説 神本仏迹説 天道思想、神儒仏一致
675年 (天武4年)4月 天武天皇「肉食禁止令の詔」
675年(天武5年)  天武天皇「放生令」
685年(天武天皇14年) 伊勢神宮式年遷宮の制を制定。
701年(大宝元年) 大宝令 雅楽寮創設(雅楽)
奈良時代 710年 - 794年
712年(和銅5年) 太安万侶「古事記」編纂
715年(霊亀元年)越前国気比大神の託宣により神宮寺建立
718年(養老2年) 大和国長谷寺の開山徳道上人 お告げ受け 西国三十三所霊場参る
720年(養老4年) 舎人親王ら撰「日本書紀」完成
737年 (天平9年) 聖武天皇「禁酒、屠殺の禁止令」
741年 (天平13年) 「牛馬の屠殺禁止令」
743年(天平15) 廬舎那仏金銅像(大仏)造立発願
南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺)
南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)
758年(天平宝字二年) 「殺生禁止令」 天皇献上品に猪と鹿肉の献上永久停止。
759年(天平宝字3年)『万葉集』
766年(天平宝字八年) 狩猟漁獲のために鷹、犬、鵜などを飼うことが禁止。肉、魚、蒜の貢納禁止。
787年(延暦6年) 長岡京遷都
788年(延暦7年) 最澄、比叡山延暦寺創建 天台宗
794年(延暦13年)平安京遷都
平安時代 794年 - 1185年 死刑制度が無かった時代:最高刑は流刑であった。
平安時代中期 神楽、田楽 成立
804年 空海と最澄は中国から茶を持ち帰る。唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』
815年(弘仁6年) 四国八十八ヶ所霊場ご開創
816年(弘仁7年) 空海、高野山 賜わる 真言宗
881年(元慶六年) 「放生令」諸国に放生池出来る。
901年(延喜元年)「六国史」完成(日本書紀 - 続日本紀 - 日本後紀 - 続日本後紀 - 日本文徳天皇実録 - 日本三代実録)
927年(延長5年) 延喜式成立 神名帳に祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載
9世紀後半『竹取物語』
10世紀「新式の武芸」成立
10世紀『古今和歌集』編纂 日本国家「君が代」の歌詞
1001年(長保3年)清少納言『枕草子』
寛弘2年9月26日〈1005年10月31日 安倍晴明 没
1008年(寛弘五年)紫式部『源氏物語』
1116年(永久4年) 白河院2回目の熊野詣
1133年-1212年 法然(法然房源空)浄土宗
1161年(応保元年)近江三井寺の覚忠大僧正、近畿地方三十三カ所観音霊場七十五日巡リ
1173年-1262年 親鸞 浄土真宗
12世紀 - 13世紀 高野山 国宝「鳥獣人物戯画」
13世紀前半「小倉百人一首」成立
鎌倉幕府「寺社奉行」
1187年 臨済宗 明庵栄西
1192年(建久三年)後白河法皇の四十九日の法要 鎌倉の南御堂
1203年 (建仁三年) 鎌倉幕府「狩猟禁止令」発布。
元禄頃の記録には「実朝公坂東三十三番札所建立」と明記
1212年(建暦2年)以後 『平家物語』成立
1226年 曹洞宗 永平道元「精進料理」
1222年-1282年 日蓮 日蓮宗 身延山久遠寺
1234年(天福二年)「墨書銘」坂東三十三番札所巡り記録あり
1234年(文歴元年) 秩父札所 ご開創 秩父三十四ヶ所観音霊場
1239年-1289年 一遍 時宗
14世紀頃 アブラメリン
室町時代「茶道」「華道」「香道」「能」成立
室町中期「お伊勢講」
室町中期 京都六角堂 僧侶「池坊」と呼ばれた僧侶により華道の確立
1435年-1511年 吉田兼倶 吉田神道
1500-1600年頃 フリーメーソン、薔薇十字団
1549年 カトリック教会修道会イエズス会フランシスコ・ザビエル キリスト教伝来
安土桃山時代 1573年―1603年
江戸時代 1603年―1868年
江戸幕府「寺請制度」「宗門人別改帳」
江戸時代「お蔭参り」
1654年(承応3年)黄檗宗 隠元隆〓「普茶料理」
1684年(貞享元年) 徳川綱吉「服忌令」
1687年(貞享四年)「病人、捨子、捨て老人、病牛馬の遺棄を禁止する令」
1694年(元禄六年) 鷹狩り制度廃止
1781年 イマヌエル・カント「純粋理性批判」
1806年(文化3)兵学者平山行蔵『武芸十八般略説』
1830年 末日聖徒イエス・キリスト教会
1838年 天理教 創立
1854年1月8日 マグレガー・メイザース生誕
1859年 金光教 創立
1863年 セブンスデー・アドベンチスト教会
1867年11月9日 大政奉還
明治政府「国家神道」「廃仏毀釈 神仏分離 神社合祀」「西欧化政策」
1868年4月6日 明治天皇 五箇条の御誓文
1868年10月23日 一世一元の詔( 明治改元の詔)
1869年7月20日 東京招魂社(現 〓國神社)創建
1869年10月2日 マハトマ・ガンディー生誕
1870年2月3日 宣布大教詔
1871年8月29日 廃藩置県
1872年(明治5年) 伊勢神宮少宮司 浦田長民 神宮教会 設立
1875年(明治8年)4月14日 立憲政体の詔書
1875年10月12日 アレイスター・クロウリー生誕
1875年 神智学協会 結成(米ニューヨーク)
1881年 エホバの証人
1882年 皇典講究所 創設。
1898年(明治31年) 全国神職会 結成
1898年(明治31年) 大本 教団創立
1899年 神宮教会が神宮奉斎会に発展。
1900年(明治33年)12月12日神戸地方裁判所 長南年恵裁判無罪。神水の物質化を法廷が確認。
1914年(大正3年)9月 福来友吉『透視と念写』出版
1915年 バラ十字会AMORC 設立
1916年 パーフェクト リバティー教団 設立
1918年10月15日 シルディ・サイ・ババ逝去
1918年11月21日 マグレガー・メイザース没
1920年(大正9年)11月1日 明治神宮 鎮座祭
1921年(大正10年)「明治神宮御境内 林苑計画」作成
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃 関東大震災
1925年3月30日 ルドルフ・シュタイナー没
1930年(昭和5年)創価学会(創価教育学会)、霊友会、生長の家 創立
1930年 ネーション・オブ・イスラム
1935年 世界救世教 立教
1936年 真如苑 創立
1938年(昭和13年)立正佼成会 創立
1940年(昭和15年)4月 「宗教団体法」成立・施行
1945年1月3日 エドガー・ケイシー没
GHQ占領期(1945-1952)
 GHQ占領政策 地主制度を解体 農地改革法 財閥解体 神道指令国家神道廃止政教分離
 GHQにより「お伊勢講」解散, 武道禁止
 10月4日 「自由の指令」公布
 12月15日 「神道指令」公布
 12月28日 「宗教団体法」廃止、「宗教法人令」公布即日施行
1946年(昭和21年)1月23日 神社本庁発足
 その他神社神道系包括宗教法人(神社本教、北海道神社協会、神社産土教、日本神宮本庁など)
 単立宗教法人(鎌倉宮・靖国神社・伏見稲荷大社・日光東照宮・気多大社・梨木神社・新熊野神社・富岡八幡宮など)
1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法公布 1947年(昭和22年)5月3日 日本国憲法施行
1947年12月1日 アレイスター・クロウリー没
1948年1月30日 マハトマ・ガンディー没(暗殺)
1951年9月8日サンフランシスコ講和条約 署名
1952年4月28日サンフランシスコ講和条約 効力発生 日本の国際的な戦後の独立の開始
戦後復興期・高度経済成長期(1952-1973)
1954年 世界平和統一家庭連合
1956年(昭和31年)5月 神社本庁「敬神生活の綱領」
1958年12月23日 東京タワーから放送開始。
1966年 クリシュナ意識国際協会
安定成長期(1973-1986)
1973年 五島勉『ノストラダムスの大予言』刊行
1974年 ユリゲラー来日
1979年(昭和54年)『ムー』創刊
1980年(昭和55年)7月 「神社本庁憲章」施行
1980年 法の華三法行
バブル期(1986-1991)
1986年 幸福の科学 設立
1989年 東欧民主化革命(ベルリンの壁崩壊)
1989年 オウム真理教 設立
冷戦後・経済停滞期(1991-現在)
1991年 『発見!パワースポット』清田益章、太田出版
1992年 法輪功
1993年 法隆寺地域の仏教建造物 世界文化遺産
1993年 「アネモネ」創刊
1994年 古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)世界文化遺産
1995年(平成7年)1月17日 阪神・淡路大震災
1995年7月2日パワースポット分杭峠ゼロ磁場発見
1996年1月オウム真理教 宗教法人格消失
1996年 厳島神社 世界文化遺産
1998年 古都奈良の文化財 世界文化遺産
1999年 日光の社寺 世界文化遺産
2000年2月 オウム真理教消失->アレフ->2007年5月「ひかりの輪」、2014年?2015年頃「山田らの集団」
2001年 小学館「週刊 古寺をゆく」創刊
2004年 紀伊山地の霊場と参詣道 世界文化遺産
  霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)
2005年 神仏霊場会の創設
2006年11月3日 年恵没後百年「長南年恵100年祭」鶴岡市 般若寺
2008年11月24日 日本のカトリック教会「ペトロ岐部と187殉教者列福式」挙行
2009年(平成21年)NHK大河ドラマ『天地人』放送 「歴女」一般女性にも広がり。
    「国宝 阿修羅展」東京国立博物館歴代3位入場者数
    「アシュラー」(阿修羅像を萌えの対象とする女子)「仏女」登場。
2009年 ユーキャン新語・流行語大賞「歴女」トップ10入り。
2009年 日本プロテスタント宣教150周年記念大会開催
2010年5月 エディンバラ宣教会議100周年記念世界宣教東京大会開催
2011年「城ガール隊」結成
2011年(平成23年)3月11日 東日本大震災
2011年4月24日 サティヤ・サイ・ババ逝去
2013年「伊勢神宮・式年遷宮」「出雲大社・平成の大遷宮」
2014年(平成26年) 四国霊場開創1200年記念
2014年8月4日 『あさイチ』(NHK)「御朱印を集める女性達」報道 「御朱印ガール」
2015年1月4日 NHK BS「チベット カイラス巡礼」放送。
2015年1月14日 育成シミュレーションゲーム「刀剣乱舞」発売
2015年 新語・流行語大賞ノミネート語50語「刀剣女子」
2018年 西国三十三所 草創1300年
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では、お釈迦様の教えであるダルマを取り戻すことは
日本仏教において可能なのでしょうか。
今ある教えに執着している限り、難しいかもしれません。
では、ダルマへと向かうために、出来ることは何なのでしょう。
それは、大乗仏教においても使えられて残されている
ダルマの中の基礎というべきものである五戒を
しっかりと正しく守って、日々生活することであるといえるでしょう。
五戒の教えは、在家の五戒といわれるように、
出家しなくても、守っていくべきものとして教えられているものです。
出家するなら当然、守っているのが当たり前な内容であるともいえます。
お釈迦様の教えを学ぶにあたって、
まず、五戒を守ることからはじめるのが良いでしょう。
そして、五戒を守ることが出来ていけば、ダルマの教えの更なる先へと
縁を得ることができるかもしれません。
お釈迦様の教えは、どんな宗教を信仰している人たちにも
共通する叡智であり、真理であります。
したがって、どんな宗教を信仰する人であっても、
守れるなら守った方がよい内容であるといえます。
より良い人生、魂の成長を願うのであれば、
まず、五戒を知り、理解し、実践することから
はじめてみてはいかがでしょうか。

五戒
1、生き物を殺さない。命を大切にする。
2、盗みをしない。人に迷惑をかけない。
3、浮気をしない。不道徳な性行為を行わない。
4、嘘をつかない。正直である。
5、お酒を飲まない。精神を乱すものを体に取り入れない。

不殺生戒(ふせっしょうかい)
- 生き物を殺してはいけない。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
- 他人のものを盗んではいけない。

不邪淫戒(ふじゃいんかい)
- 不道徳な性行為を行ってはならない。

不妄語戒(ふもうごかい)
- 嘘をついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい)
- 酒を飲んではいけない。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 20:31| 静岡 ☀| Comment(1) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お釈迦様の教えと、様々な教え

お釈迦様の教えと、様々な教え

 世の中には、いろんな教えがあります。
学校で教わる教え、両親から教わる教え、書物や経験から学ぶもの
宗教、哲学、科学、人文経済、法律、教えは多様であり
多彩です。
歴史や文化、偉人や賢人からの学びもあるでしょう。
では、この世の中の最高の教えとは何なのでしょうか。
それは、やはり神の叡智であり、聖霊の叡智であるでしょう。
そして、それらの中の最高峰がダルマであるわけです。
なぜなら、神も学びたいと願う教えが、ダルマであるからです。
 ダルマは、お釈迦様が残されて、今の世には存在しています。
今のこの世は、ダルマの存在するという恵まれた状況にあると
いえるわけです。
宇宙の歴史、地球の歴史の中では、ダルマが地上に存在しない
そんな期間が大半であるわけですから、
ダルマに触れることが可能な時に、地上のこの身があるということは
最高にラッキーであるといえるでしょう。
しかし、そんな最高な縁も、その縁を活用しなければ何の価値もありません。
では、ダルマの教えとは、どの様なものなのでしょう。
そして、他の教えとの違いは、何なのでしょう。

 この世にある教えは、大別すると、
この世についての事象に関する教えと、
この世以外についての事象に関わる教えという
2つに分かれているといえるでしょう。
この世についての事象に関する教えとは、
自然科学であり、人文科学であり、歴史文化経済社会に関するもの
ということになります。
この世での生き方はマナーや哲学として語られてきています。
学校や会社、地域社会で学ぶことの大半は、
これらのものであるといえるでしょう。
それでは、もう片方のこの世以外についての事象に関わる教えとは
何でしょうか。
それは、スピリチュアル的な教えであり、神様に関する教えとなります。
信仰や宗教が、それを中心的に担ってきているといえるでしょう。
この世についての事象に関するものは、
この世以外のものに関わる学びよりも狭い世界のものといえます。
したがって、限定的な世界におけるものでしかありません。
自然科学で説明できない事象や現象が数多く存在しているのは
自然科学という学問が、限定された世界の中でしか通用しないもので
あるからだともいえるでしょう。
それは、人文科学や政治経済などについても同様です。
では、この世以外の世界に関わる教えとは、どんなものでしょうか
神の叡智、聖霊の叡智といわれるものは、
信仰と宗教によって、伝えられてきているものであったりします。
シャーマニズム、一神教、多神教、様々なものがあります。
それぞれが、担うべき役割があって存在しているものでもあります。

スピリチュアル的な世界は、この世に近い存在でもあります。
したがって、その教えも、この世に近いものであるといえます。
一神教は、神々の中の御一方が齎した教えです。
ひとつのことから学ぶべき段階にある魂にとっては、
それを正しく導くために必要な教えであるといえるでしょう。
多神教は、神々の世界に関わる教えを伝えています。
そして、そんな教えの中で、もっとも深く重い教えが、
ダルマであるわけです。
なぜなら、ダルマは、神々が学びたいと願う教えであるからです。
この地上だけでなく神々の世界を含めた天宙の構造を示し、
それらの世界が、なぜ存在しているのか、存在の理由を示し、
そして、どの世界に行くのには、どのような条件を満たす必要が
あるのかを示し、人が、最高峰の世界へと行くためには
どうすれば良いのかを示してくれているものとなっています。

ダルマを説くことの出来るレベルの方は、
アラハンとなられるレベルの方だといえます。
ダルマを語られるのはプラプッタジャウです。
もっとも最近にこの世に現れたプラプッタジャウは
お釈迦様です。
したがって、お釈迦様の語られたダルマこそが
この天宙で最高の叡智であるといえます。
創造神も学びたいと願う叡智がそこにはあります。
もっとも正しいダルマは、お釈迦様から直接お聞きするものです。
しかし、お釈迦様から直接聞くことは今は出来ません。
お釈迦様の弟子のアラハンとなられた方から聞くことも
普通の人には出来ません。
だから、グルとなる方との出会いが大切となります。
お釈迦様の教えを正しく学ばれた方からダルマを学ぶことが
もっともよい方法であるといえるでしょう。
「お釈迦様の教えなら仏教でしょう、仏教の経典を読めばよいのでは」
そう考える方がいらっしゃるかもしれません。
しかしながら、残されている経典は、お釈迦様が書かれたものでは
ありません。アラハンとなった方が書かれたものもほぼありません。
弟子の弟子、かなり時間が経過したあとで、書き残されたものが
大半であるといってよいでしょう。
そのために、お釈迦様の教え、そのものではなくなっていることが
多いです。アラハンとなったようなレベルの方の残されたものであれば
信用できるといえるでしょうが、そうでない場合には、
お釈迦様の教えに、著者やその先生の教えが混ざったものに
なってしまっています。
そのために、重要なポイントが暈されていたり、
この世的に楽になるような解釈が追加されてしまっていたり
本質がぼけてしまっていたりすることが多かったりします。
特に、一般大衆向けに改ざんされた大乗仏教においては
多くの異なる教えが混じってしまっていて、
お釈迦様の教えが薄められてしまっています。
もちろん、正しい部分もあります。
しかし、どこが正しく、どこが重要であるのかは、
ダルマの本質とは何かについて知ることなしに
判断するのは難しいといえるでしょう。
ダルマを学び、その内容をアラハンレベルの方から
直接確認できるレベルのあるような方から、
ダルマについて知ることが大切になってくるといえるでしょう。
仏教とは、お釈迦様の教えというよりも
お釈迦様の弟子たちの一門の中でまとめられた教えというべきでしょう。
大乗仏教では、本来の教えが薄められてしまいました。
お釈迦様は、誰でもアラハンとなれる道をしめされました。
既に、出家しなくてもアラハンとなるために必要なことは示されていたわけで
大乗仏教の生まれた理由は、お釈迦様の教えとは無関係であることに
なっています。つまり、ダルマをきちんと理解出来ていなかった方が
一般大衆へと広めるという誤った目的のためにつくったものであると
いえるのかもしれません。
お釈迦様の教えは、どんな人にでも適応されるものです。
しかし、そのための道は、それぞれの人によって
大きくことなるものでもあります。
なぜなら、人によって、カルマも徳分も異なっているからです。
より確実に歩むのであれば出家することが良いというだけなのです。
実際に、出家してなかった方でも、アラハンとなった方は
いらっしゃいます。
出家とは、目的ではなく手段のひとつであるということです。
では、人生の目的とは何なのか、
それは、アラハンとなり、解脱して、苦の輪廻から外れること
であるといえるわけです。
これは、神々の願いでもあったりするわけです。

お釈迦様の教えとして、
日本にて、仏教の教えとして出てくるキーワードがあります。
「中道」、「四苦八苦」、「縁起」、「四諦」、「八正道」、
「六波羅蜜」、「五戒」、「十善戒」
など、それぞれが、ダルマの一部を語っているものではあります。
しかし、どうも哲学的な解説がされていることが多く
ダルマの根本に立ち寄った形で、説明されているのか
疑問の残るものが多かったりもします。
ダルマの教えは、非常にシンプルであり、
また具体的であり、実践的なものとなっています。
お釈迦様が、アラハンへと至るために、何をすべきなのか
きちんとお教えになっているからです。
ところが、現代仏教の中で、語られているお釈迦様の教えの
多くが、学術的哲学的な表現となっていて、
しかも、それを読んで、どうすれば良いのかという部分について
すなわち、実践の部分について、抽象的な表現で終わっています。
それは、対機説法による内容を編纂したが故の結果なのかもしれません。
お釈迦様は、弟子たちに、対機説法をもって、
その弟子、個人にとって必要な内容を必要な形でわかりやすく
教えていらっしゃいました。
つまり、その瞬間の教えは、教えの対象となる人、または人々にとって
必要でありわかり易いかたちにて、語られていたということです。
つまり、ダルマそのものを、知るべき人が知りえるように
教えられていたということになります。
その部分を認識した上で、教えの内容を読み解かないと、
誤った解釈をしてしまう可能性があるということでもあります。
これは、お釈迦様だけでなく、イエス様や孔子、ソクラテスといった
叡智を語った方々の会話を記録したものから変遷された書物に
おいても同様なことがいえるでしょう。

実は、どうでも良いことが、なんだか重要なことであるかのように
記述されていたりするわけです。
また、非常に重要なことなのに、軽い感じで記述されてしまっている
そんなケースもあったりします。
たとえば、神と仏の違いですが、語る意味はありません。
神も仏も、天上界の中に存在している方々でしかありません。
その階層にいらっしゃるのかは、その魂のレベルの差でしかないわけです。
ダルマでは、その部分についても、叡智を含んでいます。
お釈迦様の教えは、創造神と呼ばれる方々も学びたいものであると
いうことを知れば、どのような関係性にあるのかは明白です。
どのような神であっても、尊敬の念をもって接することが大切です。
否定したり卑下することなどはもってのほかであるといえるでしょう。
場合によってはカルマとなってしまうからです。

人生を過ごすのであれば、カルマをつくらないようにして
徳分を増やすように行動することが重要であるということになります。
その上で、霊性を高めるために瞑想を行いマントラを唱えるという
ことになるわけです。
ダルマでは、アラハンへ至る道が示されています。
しかし、その道の困難さについては、
ひとりひとり異なるものとなっています。
誰もが輪廻の輪から脱することが出来るのですが、
そのためには自分自身が行動するしかありません。
お釈迦様が救ってくれるわけではないということです。
自分自身を救えないのに、他人を救えると思うのは、
傲慢であるといえるでしょう。
この世的な徳=人徳=タンタンにおいては、
他人を救うことは立派なことですし良いことです。
しかし、天宙的な徳=徳分=タンブンとはならないことも
あるということであったりするわけです。
どうすれば、カルマを増やさずにすむのか、
どうすれば、徳分を積むことができるのか、
ダルマは、教えてくれています。
そして、その部分の叡智こそが、重要であったりするわけです。

素晴らしい教えは、数々存在しています。
しかし、最上級の教えは、お釈迦様が残されたダルマです。
そこに至ることが出来る縁をもっていることが
いかに幸せなことであるのかを、忘れてはならないでしょう。
そして、幸せとは、自分自身の決めることでしかありません。
どんな環境であっても、幸せなら幸せだし、不幸なら不幸にしか
ならないということです。
ただ、この苦の満ちた輪廻の世界から、脱することは出来ます。
その方法を教えてくれるのが、ダルマであるということです。
苦から脱することを、望むか否かは、
それぞれ、ひとりひとりの魂が決めることでしかありません。
あなたは、どんな選択をするのでしょうか?。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 07:32| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月04日

タイの寺院 日本で参拝


タイ仏教は、お釈迦様の教えであるダルマを
しっかりと伝えている仏教です。
日本の仏教は、ダルマの一部のみが、
大乗仏教という一般大衆向けに変遷されたものから
さらに、漢文、日本語という2つの言語の壁を
隔てた上で、伝わってきたものであるために
残念ながら、深い部分についての教えは
伝わっていないといえるでしょう。
それゆえに、お釈迦様の五戒については
出家した方でも守れていないことが多かったりします。
五戒、シンハーを守ることは、
ダルマの中の初歩的な教えであると言えます。
入門編といってよいでしょう。
徳分を積むためのタンブンについても、
お釈迦様の戒と律とを守ったサンガにて
修行される僧侶にお願いするからこそだとも言えます。
タイの仏教の寺院も、日本にいくつかあります。
また、タイからのお釈迦様に纏わるものが
贈られた寺院もあります。
徳分を積む機会となり得る場所であるともいえるでしょう。

シンハー、五戒を守り、
瞑想によって、心を育むことが、
ダルマの深い部分を知るために
大切な第一歩であると言えます。
地獄に逝かないために、
縁あるのであれば、ダルマを学ぶ機会を
逃すことがないようにしていくことが
霊性修行の道である人生をより善きものに
することになるでしょう。

覚王山 日泰寺
http://www.nittaiji.jp/

ワットブッタデッモンコン
長野松本

ワッパープッタランシー
東京八王子

ワットパクナム日本別院
千葉成田

タイ国タンマガーイ寺院
東京荒川区、神奈川、栃木、大阪、長野、茨城、埼玉、山梨、名古屋
http://www.dhammakaya.jp/

日タイ文化交流
http://thaijapanculture.blogspot.com/
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 04:18| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月30日

戒めと裁きと

戒めと裁きと

「神と共に 第一章:罪と罰」という韓国映画が
上映されていました。
韓国は、キリスト教国なので、キリスト教的な内容かなと思ったら
仏教の地獄の教えに基づいたお話でした。
七つの地獄の番人に生前の行いの裁きを受けて
全て無罪になったら、生まれ変わることができるという話で
有罪になったら、その地獄で苦しむことになるというものでした。
死後、神の前に出て自分の生前の行いについて裁きを受けるのは
キリスト教でも同じ教えであったりします。
キリスト教では、天国へ入れるか、地獄に落ちるかという
二者択一に簡略化された教えになってます。
まだ、幼い一神教においては、それでも充分であるということで
あるともいえるでしょう。
死後、どこに行くのかについては、
複数の行き先があります。
天国と地獄だけではなく、人として転生、動物として転生、
スピリチュアルとして地上になどなど、
もちろん、どこにいけるのかは、裁きを受けた結果次第であり
死んだときのカルマと徳分の状況によるということになります。
また、霊性の成長レベルによっても変わってきます。
地獄に行かないためには、どうすればよいのか、
それは、神の戒めを守って生きていることが
まず大切になってくるわけです。
神様を信じることは、当然のことですので
信じない人は残念ながら、地獄行きでしょう。
神の戒めには、いくつかのものがあります。
一神教の共通の聖典である聖書の中で語られている
代表的なものが、聖書の十戒です。

聖書の十戒

聖書出エジプト記
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:12 あなたの父と母を敬え。
あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、
すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合
1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.隣人について偽証してはいけないこと
10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと

カトリック教会・ルーテル教会の場合
わたしはあなたの主なる神である。
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。

一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
共通する聖典が旧約聖書です。
その中にあるのが十戒です。
神への信仰の初歩として、守って欲しいという内容であると
いえるのではないでしょうか。
まず、神を信じること、信じて疑わないこと、
信じた神から与えられた戒めを守ること、
それが、基本ということになるわけです。
最初の方は、神を信じることに関する戒となっています。
神を信じることが当たり前であれば必要のないものとも
いえるでしょう。

もっともベースとなるべき
五戒の内容も、一部きちんと含まれています。
五戒(五つの道徳)は以下の通りです。
1、生き物を殺さない。命を大切にする。
2、盗みをしない。人に迷惑をかけない。
3、浮気をしない。不道徳な性行為を行わない。
4、嘘をつかない。正直である。
5、お酒を飲まない。精神を乱すものを体に取り入れない。
4つまでは十戒の中に含まれているといえるでしょう。
ヒンドゥー、仏教の多神教の教えにも含まれるものは
世界に普遍なものであり、もっとも基礎的な神の叡智であると
いえるのではないでしょうか。
五戒は、お釈迦様が御生れになる10万年前に
示されているものです。まさに、基本中の基本といえる
守るべき戒めであるといえるでしょう。
ただし、戒は、守るレベルや深さも様々であったりします。

仏教では、神、仏の世界を信じることは当然なことであるので
そこに関する戒よりも、自身の魂の成長のために
必要なことを、十戒としています。
身業、口業、意業と、行動、言葉、精神の行いについて
それぞれ、戒めるべきことが示されています。
五戒を守った上で、その内容についてもっと深く
戒めるべきことの本質を教えてくれているものだと
いえるでしょう。

十善戒

不殺生 故意に生き物を殺さない。
不偸盗 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
不妄語 嘘をつかない。
不綺語 中身の無い言葉を話さない。
不悪口 乱暴な言葉を使わない。
不両舌 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪 激しい欲をいだかない。
不瞋恚 激しい怒りをいだかない。
不邪見 (因果の道理を無視した)誤った見解を持たない。

生まれた環境は、その人の前世の徳分やカルマによって
定められます。カルマ解消にもっとも良い環境と、
徳分が積みやすい環境とは、
その魂の歩みによって変わるということです。
カルマを積むことになってしまう環境に生まれるということは
徳分が足りなかったり、カルマ解消すべきことが多かったりと
その魂の成長のために、与えられるべくして与えられた環境と
いうことでもあったりします。
余り良くない環境であれば、その環境を大きく打破することが
出来れば、魂は成長することが出来るでしょう。

輪廻転生のすべては、魂のなかに刻まれています。
その魂のアカシックレコードに、カルマについて記録されて
いるということです。
しかし、その内容は、見えないようにされることが多いです。
地獄に落ちるとき、転生するとき、
過去を知ることが出来ないように封印されます。
つまり、因果の流れの中の今の状況の原因を知ることなく
歩み始めることになるわけです。
その状況で、結果である今の状態から、自らの因果の元を
理解し、それを悔い改めることが出来るのかが
問われているということでもあります。
どんなことについても、感謝することが出来る心と
なることが出来るのか、それが問われているわけです。
人は、原因がわかっていたり、理由がわかっていれば
納得しやすいものです。
でも、原因や理由がわかっていなくても、
納得できること、その心情が成長においては必要であると
いうことなのです。
それは、とても難しいことであったりします。
多くの人が、自分は何も悪くないのにっと思うことが普通でしょう。
自分が選んだわけでもないのに、とか、
自分がやったわけでもないのに、とか、
自分が望んだわけでもないのに、とか、
自分以外に原因や理由を求めがちなのです。
自分自身に起こることは、すべて、因果応報の結果であり
自身のカルマであり自身の縁であり自身の因果であると
いうことを、認めるのが難しかったりするのです。
でも、それを認めることが、魂の成長のためには
必要とされています。
そして、そのことに向き合うのは、
生きている今であるべきだということなのです。
死後の世界は、成長が難しくなるのです。
また、裁きの場に立ってから真実を提示されてからなら
誰でも認識させられてしまうものなので、
成長には結びつかないのです。
短い現世における人生が、いかに凄い価値のあるものであり
魂の成長や、カルマの解消や、徳分を積むのに
恵まれた世界であるのかということを、しっかりと認識することが
求められるのだともいえるでしょう。
そして、知り、学び、行動することが必要となります。
いろんな壁や困難があるでしょう。
それを、乗り越えていけるか否かは、本人の心しだいということです。
そう思うと、自分自身の弱さと脆さとを痛感させられます。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 01:21| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月01日

神との出会い〜徳分とカルマの法 知るから学ぶへ

神との出会い〜徳分とカルマの法 知るから学ぶへ

神様との出会い。
スピリチュアルな空間。
聖別された神聖なる時空。
天の扉開きは、そんな素晴らしい場所で
行われる神聖なる儀式であり、
時空を越えた繋がりを感じることの出来る
貴重な場です。

人は、なぜ生まれ、なぜ逝くのか。
この世界はなぜ存在しているのか。
人生とは何なのか、幸福とは何なのか。
生きることとは何なのか。
そのような悩みを解決するためには
知り学ぶことが必要になります。
何を知り、何を学ぶことが必要なのか。
過去、お釈迦様、イエス様をはじめとした
聖人の皆さんが、教えを与えて下さっています。
ただ、直接に学ぶことが出来ないため
その弟子の皆さんの残したものからしか、
その言葉を知ることが出来ません。
正確に伝わっていない部分もあったりしますし
解釈が別に加えられていることもあります。
文献から学ぶことが出来るものには限界があると
いうことなのです。
では、どうすればよいのか、
お釈迦様から直接学ぶことができれば
それが最高であることは間違いありません。
しかし、それは難しいことです。
では、お釈迦様から直接学んだ方から学ぶという
ことが出来たら、それは凄いことであると
いえるでしょう。
叡智の学びは、まさに、そのような方との
縁があるかどうかで、深さも内容も
変わってしまいます。
知ることと、学ぶことは異なります。
まず知ること、次に学ぶこと。
できれば最初から学ぶことが出来れば
よいでしょう。
知っても学べなければ、自分のものになったとは
言えません。
学び実践してこそ、その価値があるということです。
ただ、実践することは、とても大変ではあります。
この世界の様々な障害が立ちはだかるからです。
実践するためには、学ぶことなければ
何も始まりません。
知り、行動し、学び、そして、実践する。
どのプロセスまで、歩むことが出来るのか、
それは、結局のところ、自分自身の問題でしか
ありません。

まず、神の存在を知ることが第一歩です。
それを実感できる場に参加することが、
始まりとなることでしょう。
神の世界との扉が開く、その場に参加することで
その実存を確信することが出来ます。
そして、神の世界の叡智を学ぶ第一歩を
踏み出すことが、人生をより価値あるものに
変えていくことになるでしょう。
より良い人生を歩むために必要なことは
実はシンプルであったりもします。
真理は叡智により深く学ぶことが出来ます。
しかし、人生は実践の場です。
もっとも大事なことを、きちんとつかみ
日々精進していくことこそが、大切であると
いえるでしょう。

また、
素晴らしい実践と学びをされた方の
セミナーの内容を知ることも、
その第一歩といえるでしょう。

松永修岳エグゼクティブセミナー
https://youtu.be/fu4zGtQfSyY
https://youtu.be/BSfEuYVjLsM
https://youtu.be/auYY0OYYbK0
https://youtu.be/Yzbo7WNJ66g
https://youtu.be/Yzbo7WNJ66g
https://youtu.be/BoV4RIef4a0
https://youtu.be/AFjuIFsijOU
https://youtu.be/s3TXAuk3_GM
https://youtu.be/FtKtM5KnXoQ
https://youtu.be/Cc7hSWajrwI
https://youtu.be/JkFDQmhkd0k
https://youtu.be/APkCdsZ-iV8
運〜徳分とカルマ
https://youtu.be/dgrPhDRMc5Q
https://youtu.be/2bz7Px1mnc4
https://youtu.be/DT_qGEi4EpM
https://youtu.be/5IH-RMutk-c
https://youtu.be/FkdWF5gXM-0
https://youtu.be/X1jjYmIUxrw
https://youtu.be/U5UOByuFkRU
https://youtu.be/ehErpwMGrp0
https://youtu.be/fuUNr3u5I0c
https://youtu.be/NXDwAcgHK1I
https://youtu.be/lR5FW_Vj-F0
https://youtu.be/YR5p4kMc-xY
https://youtu.be/YUedJhQVwcs
https://youtu.be/q1mKAv3Sj-I
https://youtu.be/mxTzgGp0Sbk
https://youtu.be/TgP0nM9EI1E
富の源泉
https://youtu.be/piSLAooAv7I
https://youtu.be/vafRRm5vsRk
https://youtu.be/vPmUfraCeEU

天の扉開き : 真の 超常現象 物質化現象 を捉えた映像
https://youtu.be/31X3eTXLekA

天の扉開き_2019年3月17日ラッカイ洞窟_天井カメラ
https://youtu.be/TRhbXIzJ1js

天の扉開き_2019年3月17日ラッカイ洞窟_天幕カメラ_1
https://youtu.be/rb4S5_YYREQ

天の扉開き_2019年3月17日ラッカイ洞窟_天幕カメラ_2
https://youtu.be/zxnDFjSbhtw

空中で金属が物質化する驚異の洞窟「天の扉開き」の謎 MUTube(ムー チューブ) 2015年12月号
https://youtu.be/P2HN2_JL4c4

「天の扉開き」の神聖物 ドラゴンボールの謎 MUTube(ムー チューブ) 2018年2月号 #2
https://youtu.be/83xUTPEsC9w
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 07:09| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月06日

教え学ぶということ

教え学ぶということ

「仏教をめぐって ◆釈迦は文字を残さなかった」というブログ記事をみました。
その答えについて、そのブログでは明確な回答は示されていないといった
印象となっていました。
しかし、その答えははっきりしています。
その理由は明確であり、わかりきったことだとも言えるでしょう。
高みへと至った方は、楽をすることはないということです。
そして、教えることに深い責任感をもっておられたということです。
それゆえに、自らの目の届かぬところに至る可能性のあるリスクを
回避したということなのです。

確かに、お釈迦様も、イエス様も、孔子もソクラテスも
自ら何かを書き残したとして伝えられているものはありません。
仏典も、新約聖書も、論語も、弁明も、
弟子たちによって書き残されたものでしかありません。
仏教、キリスト教、儒教、哲学、
そららの根源にある叡智、真理の本質を学びとることは、
書物を読むだけでは為しえないということだともいえるでしょう。
書物を読むということは、自己だけで解釈するということです。
つまり、読む人間のもっているもの以上のものを導きだすことは
ほぼ不可能であるともいえるのです。
もちろん基礎教養など、書物でも学べるものは数多く存在しています。
しかし、真髄を学ぶには、師から伝え聴くしかないということなのです。
ゆえに、お釈迦様もイエス様も孔子もソクラテスも
対話説法をもって、弟子たちに、弟子ごとに、それぞれのレベルと
必要なものを見極めたうえで、教えを説いていらっしゃったわけです。
それは、自らが叡智の深みを知った方、学び取られた方であるからこそ
真の叡智を伝えること、悟ることの難しさを知るが故の方法で
あったのだと思います。
書いて残した方が楽なのです。
でも、そんな楽をしてしまっては、正しく必要なことを
伝えることなど出来ないと知っておられたのです。
聖者や偉人の方々も、書き物を残されている方はいらっしゃいます。
ヴェーダの叡智では、パームリーフブックとして残されている
叡智が存在しています。
しかし、それらのものは、他人にみせるために書かれたものではありません。
いってみれば、外部記憶として、残されたものであるといえるでしょう。
したがって、パームリーフブックの伝達は、
師から弟子のみ行なわれてきています。
つまり、師から学んだ者で、パームリーフブックの内容を理解できるもの
正しく読みとめるものに伝えられるものであり、
誰にでも開示されるようなものではないのです。
根源的な叡智は、外部記録として残すことが本質的には出来ないと
言うことであるかもしれません。
自らの魂の中に刻み、
魂の中のアカシックレコード(Akashic Records)にのみ残されるもの
それが叡智であるということなのでしょう。
ひとつの真理を伝えるのにあたり、
師は、弟子にとって、必要な形で、必要な内容をもって
教えを説くということなのです。
それが出来るから、師であるともいえるでしょう。
お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテス、
みな師として、高みにあった方々です。
弟子たちに、弟子ごとに、必要な教えを理解できる言葉をもって
伝えられていたということは間違いないでしょう。
さて、師が弟子に伝えた言葉を、第三者が書き残して、
それを、更に別な人が読んだとき、
最初に師が弟子に口伝した内容の意図と意味が正しく伝わるでしょうか。
もちろん正しく伝わるケースもあるでしょう
しかし、多くは、読んだ人の自分の視点と理解でしか認識できないでしょう。
そして、それは最初に師が弟子に伝えたことの本質ではないことの方が
多いことでしょう。
その様な誤った認識が起こることに対して是としない姿勢を
持っておられたということなのだと思います。
しかし、その姿勢は、自らのものであり、弟子たちに強要することは
ありませんでした。
それは、それぞれがそれぞれに考えるべきことであるからです。
また、書いて残すことは、学びの入り口としては悪いことではありません。
良き師への道しるべとはなり得るからです。
深き叡智への道しるべとしての役割は果たしえるということなのです。
「仏典」、「新約聖書」、「論語」、「ソクラテスの弁明」など
弟子たちの残した書物は、その師の教えへの道しるべとしての
役割を担っているということなのです。
しかし、書物だけでは、師の持つ真の叡智への深みには至れないのも
また事実であるといえるでしょう。
より深く、より次元の高い叡智は、
師から弟子へと直接伝えられるものであるということなのです。
それは、叡智を学ぶということの先に、
学んだことによる責任が生じるからでもあります。
インドの叡智は、ヴェーダの叡智といわれます。
その叡智の中の入門といえるもの(学び舎でいえば幼稚舎のレベル)が
世の中に広く出回っている書物の内容ということなのです。
そこから先は、師に弟子入りして学ぶか、
既に学んだ方から、直接伺うしかないということになります。
世に広がっている既知の書物から学べるものは、
それが、この天宙に関わるもの神の世界に関わるものであるなら
その叡智のもつ世界の中では、
入門といえるもの(学び舎でいえば幼稚舎のレベル)でしかない
ということなのです。
その先へ至るには、師から学び、自ら悟るための修行を行なうことが
必要になってくるということです。
そのために必要な方法は、入門レベルの教えの中にも伝わっています。
それは、「五戒」を守ることであり、
「祈り」「瞑想」を行なうことであるわけです。

書き残さない理由として、別な側面もあります。
それは、言葉の持つパワーです。
深い叡智に関わる言葉には、パワーがあります。
それを書き残したものにも、パワーが宿ります。
パームリーフブックには、そこに書かれているものの力は当然のことですが
書かれたパームリーフブックそのものにもパワーが宿っています。
それは、聖書の中で出てくる十戒が刻まれた石版がパワーを
持っていたのと同様です。
聖者と呼ばれるようなレベルの方が、
叡智を書き残すと、それ自身がパワーを持つものとなってしまいます。
その様なものを残すことに価値を見出していなかったのだと
思います。

魂の成長の先には、いくつかの道が存在しています。
お釈迦様の行かれた道へ進むには、お釈迦様の教えを学び
歩む必要が出てきます。
それは、大変なことではありますが、素晴らしいことでもあります。
アラハンとなり、ニッパンへと至る道は既に示されているのです。
そして、その道へと向かうために必要なことを
それぞれのレベルに応じたものとして、
お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテスも、弟子に伝えていたと
いえるでしょう。

成長する早道は、やはり、良き師と出会うことであるのです。
対話説法をもって、教えてくださる深き叡智を修めた師と
出会えたなら幸いであるといえるでしょう。

お釈迦様、イエス様、孔子、ソクラテスといった方々に
出会い、学ぶことが出来た方は、もの凄く幸せであったのだと
いえるということです。

しかし、出会いは縁であり、その縁を紡ぐためには
徳分を積むしかありません。
まさに、これ日々善行ということになるでしょう。

良き師と出会うためには、
良き弟子となりうる準備が必要であるということかもしれません。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 21:46| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月31日

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)とは

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)とは

マーヤ姫がお釈迦様を生んで5日後に亡くなられたあと
テワダーの最も高位のレベルに行かれていました。
お釈迦様は、悟りを開かれたあと、
ある満月の日(陰暦11月)にテワダーの世界に行かれて、
マーヤ姫にお会いになりダルマを説きました。
説法を聞かれたマーヤ姫は、アラハンとなり
ニッパンにあがられました。
お釈迦様の生母マーヤ姫への親孝行は
まさに最高のものであったのです。
お釈迦様がマーヤ姫に説法を行なったあと
地上に戻られるにあたって
インドラ神が3つの階段を創られました。
「金の階段」「銀の階段」
「クリスタルのようなガラスの階段」
お釈迦様は、その中のひとつを使って
地上に戻られました。
その際に、天界の扉、地獄の扉、地上世界の扉が
同時に開かれました。
お釈迦様は、開いた扉を通じて全ての世界の様子を
ご覧になられていました。
お釈迦様の弟子たちは、お釈迦様が
テワダー界から地上に戻られる様子を見ていました。
その素晴らしい日を讃えて、
パンサーの明ける日とすることになったのでした。
この日は、3つの世界の扉が開く日となりました。
それから、メコン川の中で、扉が開くようになったため
凄いパワーが流れ込むようになり、
そのエネルギーが火の玉となって
メコン川の中から昇ってくるようになったわけです。

やがて、その様子は、
お釈迦様を守る者であるナーガ神が、お釈迦様の偉業を
讃えるために祝福の火の玉を吹き上げていると
言われるようになったのでした。

現象について今だ謎なのは当たり前なことです。
なぜなら現代科学では説明できない現象だからです。
しかも、その現象は今の科学的工学的手法では
捉えることはできません。
(結果としての火の玉を記録することしか出来ない)
目に見えない存在、神の世界の存在を信じた上で
なければ、論理的な説明は成り立たないものなのです。

天の扉開きと同じような現象であるといえるでしょう。

この世界には、天界の扉、地獄の扉が、
開くような場所が、いくつか存在しています。
定期的に開くような場所もあり、
その様な場所は、聖地や神秘な場所として
語られるようになっているわけです。
神山(カイラス)山頂の上も、そんなひとつであったりします。

プジャの様な神聖な儀式によって、
扉を開くことも可能です。
天の扉開きは、まさに天界の扉を神聖な儀式によって
開くものであるわけです。

その様な場所に赴くときには、
やはり真摯な心をもっているべきでしょう。
その場所そのものは聖なる空間となっていますが、
その場所の周辺には、そこに行けないけれども
そこから流れるエネルギーを欲して
悪い存在も集まってきます。
きちんとしていない場合には、そんな悪い存在と
関わることになってしまうケースもあり得るのです。
また、善い存在であったとしても
強いスピリチュアルな存在を怒らせるようなことを
してしまうと、その報いを受けることになるかもしれません。
神隠しにあってしまうというのは、
そんな事例のひとつであるのです。

聖なる場所や祝福されし場所にむかうことが出来て
神秘なる現象に立ち会える機会を得たのであれば
感謝して、徳を積むように行動すべきでしょう。

バンファイパヤーナーク
https://youtu.be/HD7t2Vy0cRY
https://youtu.be/Kth8cWJQUkA
https://youtu.be/cpj5XYa9GnQ
https://youtu.be/HJtax-riEhQ
https://youtu.be/DbvPp322i6g

お釈迦様に纏わる大事な日
マーカブチャー(万仏祭)旧暦2月満月
ウィサーカブチャー(仏誕節)旧暦6月満月
アサラハブーチャ(三宝節)旧暦8月満月
カオ・パンサー(入安居)旧暦8月十六夜
安居:ヴァルシャ(サンスクリッド)、ヴァッサ(パーリ語)
オーク・パンサー(出安居)旧暦11月満月
タイでは禁酒日ともなっている。
本当は常に禁酒が善いが、お釈迦様に礼を持つのであれば
最低限祝日とパンサーの期間くらいは禁酒すべきだろう。
出来るのなら、
お釈迦様もお説きになられた
「人間らしい生き方」への道しるべである
五戒を守ることが、本当は望ましいことだといえる。

「国十善を行ひ、人五戒を修すれば、五穀豊登し万民安楽なり」
 (弘法大師空海)

五戒を守る僧侶の会より
http://gokaiga.aikotoba.jp/index.html
一. 私は故意に生き物を殺しません(不殺生戒)
二. 私はどのようなものも盗みません(不偸盗戒)
三. 私は夫婦以外の性的関係を持ちません(不邪淫戒)
四. 私はいつわりを語りません(不妄語戒)
五. 私は酒や麻薬などを摂取しません(不飲酒戒)
(これは、日本仏教の初歩的なレベルの話といえるだろう)

五戒は、お釈迦様の誕生を告げられたときに
お釈迦様の説教を聴きたいのであれば、
輪廻転生の中で、守るべきこととして示されたものであり
インドの神話時代からの教えであるといえるもの。
五戒の言葉は、非常にシンプルであるものの
その内容について、どこまで守れるのかは
人によって異なってくるとも言えるものである。
より深く守るのであれば在家では難しくなってくる。
どのレベルで守れているのかによって
その人の魂のレベルが異なっているのだともいえるだろう。
また、魂の成長のレベルも、五戒の守れるレベルによって
異なることだろう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 20:44| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月30日

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)

バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)

タイのメコン川各地で年に一度だけ見られる
バンファイ・パヤナーク(Bang Fai Phaya Nak)。
陰暦の11月の満月の夜にナーガ神
(ナーガ神とはお釈迦様を守る者として古くから崇められてきた龍の姿をした神)が
メコン川の底から現れて、祝福の火の玉を吹き上げるという神秘の現象。

https://youtu.be/EpiUc-nYbo0

https://youtu.be/cpj5XYa9GnQ

https://youtu.be/4qukKpbJhBU

https://youtu.be/eS8NkPvJMPA

陰暦11月の満月の夜、メコンに棲む竜神が”火の玉”を吐く。
http://ryotawakasone.blogspot.com/2010/10/blog-post_23.html

【アジア発!Breaking News】花火?発砲?未だ謎。年に一度だけ、満月の夜、メコン川から飛び出す火の玉(タイ)
http://japan.techinsight.jp/2009/10/wakasone0910060400.html

バンファイ・パヤナークはメコン川に打ち上がる神秘の火の玉【TVウォッチング】
https://www.thaich.net/news/20141110a.htm

バンファイ・パヤナーク(龍神の火の玉祭り)
https://ameblo.jp/phakchii/entry-10688763517.html

この現象が起こる日は、
お釈迦様にまつわる日であったりします。
オーパンサーの日です。
この現象も、それに関わるものであり
人々に、この世ではない世界の存在を
教えてくれているものでもあるといえるでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:05| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

五戒について

五戒について

お釈迦様の深い教えは、日本には残念ながら
伝わってきていないものの
お釈迦様の教えの基本となるものは
大乗仏教として中国経由で日本にも
伝わっているものはあります。
その基本中の基本が、
「在家の五戒」
の教えです。

これは、在家とあるように
出家したお坊さんはもちろんのこと
檀家の皆さん、信者の皆さんも守るべきものとして
伝えられているものであるわけです。
仏教の基礎中の基礎といえるかもしれません。

その五つの基本であっても、
しっかりと守ることができる人が少ない社会に
平安があるわけもないのかもしれません。
また、守れないということは、
カルマを積むということでもあったりします。
地獄の深い方に逝きやすくなってしまうと
いうことになるわけです。
カルマを多く積んでしまうと、
死後、地獄でも深い地獄にいかなければ
ならなくなってしまいます。
そうならないためにも、
五戒は守って生きていくのが善いでしょう。

不殺生戒(ふせっしょうかい)
- 生き物を殺してはいけない。
殺すことに関与してはいけない。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
- 他人のものを盗んではいけない。
盗みに関与してはいけない。

不邪淫戒(ふじゃいんかい)
- 不道徳な性行為を行ってはならない。
邪な想いを抱いてはいけない。

不妄語戒(ふもうごかい)
- 嘘をついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい)
- 酒を飲んではいけない。

善き人として、守るべき基本が、
この教えには含まれていると言えるでしょう。
お釈迦様が御生れになる10万年前に
神様からお釈迦様の降臨が告げられたとき
お釈迦様の傍で学ぶことが出来る者の
条件として、五戒を守って生きたものであることが
告げられていました。
この世で五戒を守って生きることは、
正道であり、霊性修行の王道であると
いえるでしょう。
お釈迦様の教えが広がって欲しくない存在は
五戒が守れないように誘惑してきます。
いろいろと守れない言い訳を教授してくるのです。
守らなくても大丈夫な理由をつくりだすように
誘導してきます。
嘘は言わずに、でも嘘を思い起こさせるように、
惑わしてくるわけです。
五戒が守れないときの言い訳の全てが
まさに、そのような誘導から生まれた理屈であり
真理から離れたものであるわけです。
聖者と呼ばれるようなレベルの方々は、
普通に生活していて、五戒を守っているレベルと
なっています。
自然に身についているということです。

日本にいると、なかなか守れないものは、
不飲酒戒と
不殺生戒といえるでしょう。
日本は、それほど次元の高くないスピリチュアル的な存在や
エンティティといった存在などと交流してきたため
お酒好きなエンティティにお酒を捧げたりしてきました。
海のある国ということで魚を殺すことも多いです。
また、明治維新後は西洋化の流れのなかで
肉を食べることも多くなってしまいました。
殺処理された死体を食べるのは殺す原因となっていると
いうことなのです。
この3つの戒を守れないためにカルマを積んでいます。
日本に生まれたこと、
五戒を守れないような環境に生まれたことも
過去世におけるカルマのためだといえます。
したがって、カルマ解消のためには、
努力と苦労が必要となるのは仕方のないことです。
出来なければ、カルマを増やして来世で苦労するだけです。

日本仏教が、お釈迦様の教えが伝わっていないと
いわれてしまうのは、出家していない人でも
守るべきだとお釈迦様が教えてくださっている
五戒すらも守れていないことが理由であるともいえるでしょう。

生活習慣としての基本、
禁酒、ベジタリアンは、当然のこととして、
他人のものを盗まないのも当然であり、
不純な性行為についても当然であり、
嘘をつかないのも当然ではあります。
私も、なんとか守っているかなと
いったところでしょうか。
でも、人生の歩みとしては
まだまだ足りないところばかりです。

ひとりでも多くの人が、
お釈迦様の教えに耳を傾けて
人生をより深く豊かなものにしていけるように
できることを願ってやみません。

今世における霊性修行において、
五戒を守ることは初級以前のレベルといわれます。
五戒を守って、その先に進むのであれば
より善き来世があるでしょう。
では、何を為すのがよいのか、
それについてもお釈迦様は教えてくださっています。
それを学ぶかどうかも、また、
ひとりひとり、自分自身で決めていくことなのです。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 23:51| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁忌について

禁忌について

禁忌、タブーという言葉に対するイメージは
現在の日本社会においては、都市伝説と同じようなレベルに
陥ってしまっているような感じがします。
正しく理解できていない方が大半ではないのでしょうか。
それは、人々が信仰心や畏敬の念を
持つことがなくなってきていることでもあるのでしょう。
それは、社会として悪い方向に向かう予兆であり、
不幸がより多くなっていく流れでもあります。
また、利己主義、個人主義の比重が高くなって
相手を思いやったり、利他の心で接したりすることが
出来なくなってきているということでもあるでしょう。
その結果は、霊性修行どころか、地獄への道と
なってしまっていることでもあります。

ネットで、禁忌について、和のこころを踏まえた上で
書かれていた方がいらっしゃいました。
とても良いことだなっと感じました。

日本のタブー(禁忌)
https://wajikan.com/note/taboo/
女人禁制と女の穢れの関係
https://wajikan.com/note/nyoninkinsei/

しかし、その内容については、
それなりの解説ではあるのだけれど
本当に大事な部分の説明がないのが残念でした。
この様な情報をネットに公開するような方でさえ、
深い叡智について学ぶことが出来ていないのが
日本の現状であるのだなっと感じたのでした。

この解説のなかでは、
禁忌については、3つのパターンがあると説明されていました。
大雑把に言えば、
1.不作法となるもの
2.損になるものという日常の生活上の知恵
3.精霊崇拝と神道的信仰からくるもの
となります。
1と2は、儒教的な礼節や慣習、日本の礼儀作法に関連する知恵、
生活の知恵といったものが、忘れてはならないこととして
禁忌として伝えられているというものとされています。
3については、あまり内容について触れられていませんでした。
女人禁制の方で、仏教伝来と広がりの中での
日本古来からの女性リーダー中心から男性中心への変化の歴史と
あわせた形での説明の中で少し関連することに
触れられてはいましたが、信仰心という視点と
スピリチュアル的な存在についての視点からの説明は
ほどんどありませんでした。
また、仏教についても、日本に伝来してきた仏教が
本来のお釈迦様の教えとは異なる部分が多い
ヒンドゥー的な部分が中心となった大衆向けに
変遷した大乗仏教であり、しかも中国文化のフィルタを
通って更に変化したものが伝わっているということ
そのために、大事な部分で欠落しているところが
多くあることを知っていたら、説明が変わるだろうなと
感じるような内容でした。
そして、残念なのが、女人禁制について伝統という言葉を
つかって括ってしまっているところです。
女人禁制や入山禁制、神官以外立ち入り禁止などの
禁忌は、伝統ではありません。
長い間継承されてきたから、伝統として見えるだけです。
その部分を勘違いされている方が非常に多いのが
残念でなりません。
本当の禁忌は、神事であり、スピリチュアル的なものです。
そして、人を守るためのものです。
人を守る知恵であるといえるでしょう。
大相撲の土俵が女人禁制なのは、
土俵が神事によってスピリチュアル的に特別な空間と
なっているために、女性が立ち入ると
そのスピリチュアル的存在によって、
その女性に悪いこと(日本的には神罰ともいう)が
起こることがあるために、
女性は入らない方が良いということを知恵として
もっているということなのです。
したがって、伝統とは無関係です。
神事をおこなっていない土俵であれば
女性が入ってもまったく問題はありません。
当然、禁忌の中には男禁制ということもあります。
また一般人禁制ということもあります。
それぞれに、そのエリアにおける目に見えない存在に
対する無礼とならないように、
怒りをかって、悲惨なことにならないように
人を守るために示されている知恵なのです。
すなわち、リスクヘッジであり安全対策ということです。
禁忌は伝統ではなく、まさにリスク安全対策の知恵だと
いえるでしょう。
実際、禁忌を破って、最悪のケースで
神隠しと呼ばれるようにこの世界から消えてしまったり
事故や病気などで死んでしまうこともあります。

唯物的な考え方しか出来ないみなさんは、
迷信という言葉を使って否定するのでしょう。
しかし、それは利己的な欲望のための方便でしかありません。
もしかしたら、悪魔やバッドスピリッツに
コントロールされて、そう思わされているのかもしれません。

日本民族は、古来から自然と深く関わってきました。
その中で、自然の声を聞き、
自然の中のスピリチュアル的な存在の声を聞き、
それを知恵としてきたわけです。
それは、とても貴重で価値の有る知恵です。
禁忌は、まさに、そんな知恵のひとつです。
祖先から受け継がれている大切な知恵を
忘れていくことは、大きな損失であり、
とても不幸なことであるといえるでしょう。
禁忌について考えるとき、
それを、どのように考えるのか、
それは、みなさん、一人ひとりが、
自分自身で考えるべきことであり、
誰からも強制されることのないことです。
ただ、
そのアプローチの仕方で、
人生は変わっていくことでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 23:50| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本人の信仰と宗教について

日本人の信仰と宗教について

 日本の仏教は、まさに日本仏教といってよい
特殊な変遷を経たものとなっています。
先だって、NHK番組の歴史秘話ヒストリアにて

奥深いニッポンの信仰心
http://www.nhk.or.jp/osaka-blog/historia/298556.html

という内容の放送がありました。
神仏習合の“封印”を解き明かしたと題するものでしたが
番組内容はあまり信仰心のあるとは思えないものでした。
神事に対する扱いを、もっと信仰心をもって
畏敬を忘れないで番組作りをして欲しいなと感じました。
おそらく、製作者、制作者ともに信仰心が薄いのでしょう。
非常に残念なことだなっと感じました。
日本の信仰の基本は、神道にあるわけですが、
その源流は、自然崇拝からきているわけです。
シャーマニズム的なものであったといえるでしょう。
女神も多く、司祭も女性が多かったのは、
日本に住むスピリチュアル的な存在の嗜好によるもので
あったのかもしれません。
日本における神は、スピリチュアル的な存在全てを
さすものであったわけです。
エンティティや妖精や妖怪といったものまで含め
目に見えない存在や、強い力をもった存在は、
すべて神として畏敬をもって対していたのが
日本人の信仰であったといえるでしょう。
八百万の神とは、まさに日本人の信仰感の基本と
なっているということです。
大陸から大乗仏教が伝わってきたとき
仏もまた目に見えない存在であったので、
何の違和感もなく、八百万の神の中に
受け入れることが出来たはずです。
番組では、政治や宗教によって、取り込みが
行われたという部分をフォーカスしていましたが
日本に大陸から伝わってきた教えとしては、
主流は中国の教えと中国経由での教えであったわけです。
儒教と大乗仏教が、大きなものであったといえるでしょう。
共に、日本の社会にとって、違和感のあるものでは
なかったといえると思います。
大和朝廷は、この教えを統治に使うことで
人心を掌握し人々と導いていくことが出来ると考え
取り入れていったことになります。
よりわかりやすく民に伝えるために、
番組で紹介されていたように、仏を八百万の神に
取り入れていったということです。
大乗仏教で伝わっている仏の多くは、
ヒンドゥーの神々であったりするので、
ヒンドューの神々の化身としてお祭りされている
仏様や神様も数多く存在しています。
番組の中で、神と仏の違いについての下りが
ありましたが、あまり意味のないものでした。
実際、本当に深いレベルでは、違いはないのですから。
表面的な違いは、信仰とは関係のない宗教的部分に
よりものであったりするので、気にすることは
あまりありません。
どの様な神でも仏でも、目に見えぬ存在に対して
畏敬の念を忘れることなく対することが
大切であるということなのですから。
日本には、お釈迦様の教えはほとんど伝わっていません。
大乗仏教が、大衆向けにインドでの教えの初心者向けの部分を
整理したものであるために、多くの内容が
ヒンドゥーの内容であったりしています。
また、原典のサンスクリット語の音を漢字にあてて写したため
漢字を表音文字として使ったことで、
その内容を漢字を表意文字として読み取ってしまって
まったく異なった内容として学ぶようになってしまったものが
数多く存在しているために、本来の意味が伝わっていないものが
多くなってしまっています。
その代表的なものが般若心経であったりします。
本来は音をサンスクリット語として訳すべきなのですが
多くが、漢字をそのまま訳しています。
もちろん、音あてした人が、本来の意味に近い漢字を
選んでいるので、それなりの意味にはなるのですが、
正しい意味にはなりえません。
ただ、その解釈は、お釈迦様の教えではないとしても、
その後の高僧の教えではあるので当然尊いものです。
日本に大乗仏教が伝来した当時は、大乗仏教として
しっかりとした内容のものであったのですが、
日本仏教は、だんだん本来の姿を失っていきます。
それは、神仏習合によるものということではないと
私は思っています。
一つ目の劣化点は、江戸の寺社奉行制度導入によるものであり
二つ目の劣化点は、明治維新の廃仏毀釈、西洋化政策によるものであり
三つ目の劣化点は、戦後の唯物個人主義教育によるものだと
思っているからです。
この変化は、そのまま日本の霊的レベルの低下にも関わっています。
NHKの番組では、神仏習合と神仏分離(廃仏毀釈)を扱っていました。
ただし、その視点は西洋学術的な俯瞰でしかなく、
本質に迫るようなレベルのものではなかったといえるでしょう。
しかし、それは番組の性質上、そうなったのだと思いますので
仕方のないところです。
日本人は、昔から受け継がれてきた大事なものを
形式だけを受け取って、その背後にある深い意味について
目を向けることをやめるようになってしまっています。
それは唯物個人主義教育の影響抜きではあり得なかったでしょう。
お祭りや年中行事には、神仏的な意味が背景にあるものです。
その部分の深い知恵に、もっと目を向けていく必要があるでしょう。
そうしないと、形式だけの継承はやがて廃れていってしまい
消えていってしまうことでしょう。
神道的な意味、大乗仏教的な意味、儒教的な意味、
それらの信仰的な部分に、スピリチュアル的な意味や価値が
伝わっていること、そして、そこに日本人の心のあり方の
源流があることを忘れてはならないと思います。
大乗仏教、儒教、道教が日本に伝来したころ、
聖徳太子、天武天皇をはじめとした大和の知恵者が、
その教えを取り入れていきました。
良いものは取り入れるというのは善き姿勢だと思います。
日本仏教は、大乗仏教から変遷してきたわけですが、
大乗仏教は、ヒンドゥー教にお釈迦様の教えを少し混ぜたものなので
ヒンドゥーの神々が多く日本に伝来することになりました。
また、残念なことにお釈迦様の教えは、
日本に正しく伝来することはありませんでした。
とくに、サンガという重要な部分については、
まったく日本には伝わっていないことは良く知られているところです。
そのため、仏法僧というものは正しくは存在していません。
サンガが無かったのですから。
出家者が在家の五戒も守れないようになってしまっているのも
日本仏教が、お釈迦様の教えから遠くなっていることのひとつです。
戦前までは、日本人は、あなたは何を信仰していますかと
問われたら、神様とか、仏様と答えたことでしょう。
宗教は何かと問われたら、神道、仏教と答えたことでしょう。
戦後を経た今、多くの日本人が、無宗教と答える状況に
日本の霊格は堕ちています。
神社にお参りし、お祭りを祝い、お盆に先祖を敬いうという
宗教儀礼に参加しているのに、無宗教と言うのは、
おかしなことなのですが、それをおかしいと思わないレベルまで
慣習と慣例から、本来の意味が失われてきているということです。
信仰を持つ外国人から見たら理解できないおかしいと思われるのは
当たり前なことです。
物質的な豊かさの代償に、
日本人は大事なものを失っていっているといえるでしょう。
その結果、多くの社会問題が発生してきているのだと思われます。
自然を大事に思い、見えない存在に畏敬の念をもち
祖先を敬い感謝し、家族の絆を大切にしていた日本人の心、
その精神は、日本人の信仰心に基づいたものでした。
信仰心を失っていくなかで、心も失われてきたと
いえるのではないでしょうか。
戦前のすべてを否定してきた戦後教育は、
大きな過ちであったことは明白です。
戦前の反省すべき点、悪かった点のみを改善して
戦前の善き点をしっかりと継承することこそが
大切であったといえるでしょう。
いまから、それを取り戻していく必要あるということです。
どんな宗教であるかは、関係ありません。
目に見えない存在に対して、しっかりと向き合い
畏敬の念をもって対することが出来る心を
取り戻していくことが大事なのです。
そして、日本の文化、伝統、慣習などに残されたものの
本質を学んでいくことが、祖先への感謝と敬愛となると
いえるでしょう。
日本仏教もまた、江戸以前の開祖の頃の在り方を
省みて、原典回帰していく必要があるように感じます。
行き過ぎた政教分離も変えていく必要があるでしょう。
スピリチュアル的な面へのアプローチが
より大切になっていくことでしょう。

低下してきた日本の霊格がこれ以上堕ちることのないように
するためには、日本人の心に信仰心がもどってくることが
必要になります。
そのことを、ひとりひとりが考えていくことが
人生の価値を高めていくことに繋がっていくことでしょう。
そして、社会がより善い環境へと変化していくための
土台となっていくことでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 23:49| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月30日

聖書の教えとは・・・・・


キリスト教の流れの中にある教えを
学ぶ場に、参加する機会がありました。
その中で学んだことと、私がこれまでに
生きてきたなかで、学んだことから、
個人的な意見を少し語ってみようかと思います。
あくまでも、一小市民の考えでしかありませんので
その点はご承知おき下さい。
当然、間違っているかもしれません。
または、もしかしたら確信を得ているところも
あったりするかもしれません。
それは、私が判断できるものではありません。
でも、私の意見の中で、何かを感じることが
出来るようでしたら幸いです。

この世の中における経済、政治の問題は
欧米中心にして存在していると言えるかもしれません。
欧米の世界は、基本的に一神教の世界となっています。
争いは、欲望の発露であるとも言えます。
一神教の国々の歴史的な恩讐や価値観の違いは、
本来、あるべきものではないと言えるでしょう。
しかし、なぜかなくなりません。
それは、本来の一神教の教えが正しく伝わっていない
認識されていない、または、阻害されているから
なのだと言えるのではないでしょうか。
阻害は、サタンやブラックマジックや
バッドスピリッツなどによるものもあるでしょう。
または、それぞれのカルマによるものもあるかもしれません。
一神教では、原罪、罪によるものという視点もあります。
一神教の世界の課題は、一神教の教えをもって
解決していく必要があるとも言えるでしょう。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
一神教は、欧米中心にして、世界の主要な国や人々に
根付いています。
その教えの原点は旧約聖書であり、
信仰する神は同じ創造神クラスの神であり
神の御使いも同じであるわけです。

創造神の意図により、この世界が創造されたことが
創世記に記述されています。
そして、最後に人を創造されたわけです。
エデンの園に、アダムとエヴァを創造して
神より守るべき約束を告げられて
禁酒、フルータリアンとして
様々な動物たちと共に暮らしていたわけです。
自然にアヒンサーが守られている世界であり、
理想的な霊性修行の場であったのだろうと
思われます。そのまま神との約束を守っていたら
成長し、真理を学び、神の世界へと逝くことが
出来たのでしょう。
ところが、天使長にそそのかされたエヴァが
アダムを誘い神との約束を破ってしまいます。
神との約束を破ったことにより罪を得てしまい
エデンの園を追放となってしまうわけです。
キリスト教では、これを原罪と読んでいます。
そそのかしたものはより重い罪を背負うことに
なったわけです。
そして、死後は地獄に行くことになるわけです。
天使長ルシフェルは堕落してサタン長となったと
されるわけです。
以後、エデンの園に戻るための歩みが始まると
いうことになります。
追放された堕落世界は、飲酒、ノンベジの世界でも
あったわけです。
エデンに戻るためには、新たな神との契約を守り
蕩減復帰を成し遂げていくことが必要ということに
なったわけです。
カルマ解消とも言えるでしょう。
では、どの様にして、エデンに戻っていくのか
その道について、先人たちの歩みと失敗の記録が
聖書に綴られていると解釈されていたりします。
アダムの家庭における復帰の道は、
その子であるアベルとカインによって
なされるはずであったというわけです。
神からの啓示を守ることが出来るのかという
ことに尽きる内容であるのに、
誘惑や心の弱さによって、神との約束、啓示を
守ることが出来ずに、罪を重ねていったわけです。
神への従順と私欲を捨てることが出来るのか
それが問われている内容が試練として
語られていきます。
アベルとカインの兄弟の失敗は、
その弟のセツの家系によって蕩減復帰が
求められていきます。
ノアの家庭へと繋がっていくわけです。
ノアの家庭は、神の啓示を信じて
洪水を生き残ることになるわけです。
黄色肌のセム、黒い肌のハム、白い肌のヤペテ
ノアの息子たちにも試練が課せられます。
しかし、失敗してしまうわけです。
そして、その子孫にまた蕩減復帰すべき罪が
残されていくことになるわけです。
アブラハムの家庭へと引き継がれ、
アブラハムは最初に躓きます。
そのため、イサクとイスマエルの兄弟が
アベルとカインの蕩減をすることなく、
イサク献祭という試練を経て、
イサクの子であるヤコブとエサウによって
蕩減復帰の試練が受け継がれることに
なります。
イスマエルは、アラブの民となり、
イスラム教の民へと繋がれていきます。
ヤコブは、母リベカの協助もあって
蕩減復帰の試練に勝利します。
その勝利権により、
イスラエルと名乗ることになるわけです。
イスラエルの民は、その後祖先の罪を
蕩減するための試練をエジプトで受け
モーセの登場によって導かれて
カナンの地に国を築くことになるわけです。
そして、サウル、ダビデ、ソロモンと
聖霊の叡智の深まりと国家の繁栄を得ます。
大預言者エリアが登場するも、
国の分裂を招き、バビロンに捕囚され、
預言者マラキにより改革が行われ、
エリアの再臨が予言されるわけです。
ユダヤ教は、エリアの再臨を待っています。
エリアの再臨として、キリスト教は
イエスを預言者、再臨主としています。
しかし、メシアとしてのイエスは、
十字架に磔にされて王として迎えられることなく
天に戻ってしまいます。
アダムからアブラハムまでの2000年
アブラハムからイエスまでの2000年
イエス以後の2000年
一神教世界の歴史は螺旋を描くように
同時性を持ちながら領域を広げて
繰り返す形で復帰を求めてきたと
言うわけです。
ヤコブ=イスラエルからの
エジプト苦役時代400年
モーセから出エジプト後の
士師時代の400年
サウルからの統一王朝時代120年
南北王朝分立時代400年
民族捕囚復帰時代210年
マラキからメシア降臨準備時代400年
メシアとしてイエスを迎えるも
エデン復帰ならず。
ユダヤ教からキリスト教が生まれる
イエス昇天からのローマ迫害時代400年
アウグスチヌスから教区長制教会時代400年
ムハマンドの登場によるイスラム教の成立
カール大帝からのキリスト王国時代120年
東西王朝分立時代400年
法王捕虜復帰時代210年
ルターによる宗教改革から
メシア再臨準備時代400年
21世紀は再臨の時代
一神教が、蕩減復帰をなして、
エデンに向けて歩みをなす時代
アダムとエヴァの罪、
アベルとカインの罪、
その罪を復帰できずに繰り返された罪
それらを贖罪して、サタン、悪心を分立し
救いを成して昇華させて、
新しいエデンを築く時代にあるという。
幸せはどこにあるのか、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
どの教えも、幸せの基盤となる社会の単位を
家庭に定めています。
家族を大事にすることが基本となっています。
ところが、現代社会は、個人主義の行き過ぎから
家庭崩壊が起こっています。
その為に、多くの社会問題が発生していると
言えるでしょう。
理想の夫婦、理想の家庭があってこそ、
理想の地域社会、理想の国家があり得るとのは
この世界における真理であると言えるでしょう。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
どれもが、人類始祖として
アダムとエヴァを、
聖者として預言者として
ノア、アブラハム、モーセを認めています。
旧約聖書の預言者は、一神教の共通な預言者であり、
聖者であると言えるでしょう。
イスラム教はイエスも偉大な預言者としています。
最後の預言者がムハンマドであるとしているわけです。
イエス様にかかった聖句をまとめたものが新約聖書であり、
ムハマンドの啓示の内容をまとめたものがクルアーンです。
キリスト教はカソリック、プロテスタントに分かれ
プロテスタントからは更に聖者や預言者が現れていきます。
イスラム教も、スンニ派、シーア派に分かれ、
シーア派からは、バハーイー教が現れます。
一神教のベースである聖書を解く形で出てきたものに
統一原理があります。
一神教の世界は、政教一致と政教分離を繰り返しながら
唯物論、共産主義を生み出すという神からの乖離の
流れも出してきました。
それらを、神学的、哲学的に、統合包括批判して
一神教のゆくべき道を示しているひとつが
統一原理、統一思想の考え方であると言えるでしょう。
既存も宗教は、神と肯定し、魂の存在を認めるという
点において、それぞれに尊ばれるべきです。
その価値は別として、その存在を否定し
非難するのは間違った姿勢であると言えるでしょう。
宗教が神を信じ、信仰心を大切にしていくならば、
互いに尊敬し尊重し、争うことなく
認めあっていくことが出来るでしょう。
そうしていくなら、神の愛を感じ、家庭の絆を
神の愛と共に醸成していくことができ、
理想の家庭が築いていけることでしょう。
そして、理想の家庭が基盤となった社会は、
理想な社会へと育まれていくはずです。
この世的なエデンを求めていくことが、
一神教の担うことであるとしたら、
再臨の時代の中において、再臨主の教えが
伝え広げられていくことによって、
ひとつの成果が導き出されるのでしょう。
もちろん、その成果、結果がどうなるのかは、
この世に生きる人々も手に委ねられているわけです。
プロテスタントの系譜は
アジアのキリスト教国である韓国に継承されて
いったと言えるでしょう。

この世界には、一神教以外の教えも存在しています。
西洋の歴史学の視点からみてみると
エジプト神話
古代エジプト紀元前3000年以前
ギリシャ神話
ギリシャミノア文明紀元前2000年以前
ヴェーダ神話→ヒンドゥー、ジャイナ、仏教、他
インダス文明紀元前2600年以前
中華→儒教、道教
夏紀元前2070年以前
日本神話→神道
日本国紀元前660年
といった感じで、多神教の教えが存在しています。
多神教の世界では、この世ではない世界
神々の世界のことが伝えられています。
または、仙人や神獣の住む世界のことなども
語られています。
目に見えない存在、スピリチュアルな世界について
一神教よりも広範囲で深く語られているわけです。
多神教から見たとき、一神教は、
神々の中の創造神の一神により啓示され導かれしものと
言うことになるでしょう。
もちろん、各聖典、神の御使いの存在も
肯定するものであることは変わりません。
一神教に伝えられる聖霊の叡智は、
この世において非常に強力で即効的な影響を
及ぼすことの出来る内容が多くあります。
その多くは、奇跡として伝承されていたり
魔法、魔術として伝承されていたりします。
ビジネスの世界で成功の手法として語られるものも
多くが、ユダヤの手法がベースとなっていたりします。
そういった意味からも、この世を整える役割の
多くを一神教が担っているように感じられます。

聖霊の叡智は、
モーセ Moyses の奇跡
ダビデ David の魔法
ソロモン Salomon の魔法
イエス・キリスト Yhoshuah ha-Mashiah の奇跡
その後は、
アレイスター・クロウリ− Aleister Crowley
マグレガー・メイザース Macgregor Mathers
アブラメリン Abramelin
と、魔法の叡智が継承されていきます。
そして、
その叡智は、アジアへと継承されていっています。
アジアのキリスト教国であるフィリピンの
心霊治療も、その叡智の系譜です。

目に見えない世界、
その存在を信じるのか、
信じないのか、
その差は、霊的に大きな違いとなります。
霊性を高め、スピリチュアル的な健康を求め、
魂の成長を望むのであれば、
まず、目に見えない世界の存在を
信じるところから始める必要があるでしょう。
目に見えない世界を信じられないなら
聖書の世界も信じることは出来ないでしょうから・・・。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 21:48| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月01日

無から有が生じる物質化現象「天の扉開き」

この世界は何のためにあるのでしょうか?
人生の目的とは何なのでしょうか?
そんな問いは、はるか昔から、誰かに語られて
きつづけてきています。
今の社会の中でも、同様の問いをしている人は
多くいることでしょう。

その答えはどこにあるのでしょうか?
科学は、宇宙誕生の謎について考えてきました。
科学は、物質の根源の謎について考えてきました。
しかし、未だに回答を見出すには至っていません。
宗教は、人の存在価値について説いてきました。
宗教は、生きることの意味と価値について説いてきました。
しかし、この世の中から不幸もなくならず不安もなくなりません。
なぜなのでしょう。
そういった謎の答えを知っている方がいらっしゃいます。
それは、神の世界の方々です。
神の世界の方々と会話できる方々です。
神の世界って何?
神様って本当にいるの?
そんな疑問を持つ人もいるでしょう。
神の世界は存在しているし
神様も存在しています。
そして、その教えも存在しているのです。

現代科学では説明出来ない現象があります。
しかも、科学的に扱う価値のある現象と言われるための
再現性、普遍性、客観性をもった現象です。
その現象は、無から有を生み出す物質化現象です。
その現象は、誰でも条件を満たせばみることができます。
その現象は、「天の扉開き」と呼ばれています。

「天の扉開き」とは何なのか。
どんな現象であるのか。
その現象はなぜ発生するのか。
科学的に捉えることは出来るのか。

百聞は一見にしかず

知りたいと思ったなら、自分自身の目で確認してみては
如何でしょうか。

天の扉開き
https://www.amanotobira.com/

天の扉開き : 真の 超常現象 物質化現象 を捉えた映像 No.001
https://youtu.be/31X3eTXLekA

https://youtu.be/50eFanb6Iv8?list=PLA_eLxzJ5UOnSCg4_a1te2sH7b0qtJ1TE

http://www.diamondblog.jp/official/aika_yoshioka/2017/09/24/%e5%a4%a9%e3%81%ae%e6%89%89%e9%96%8b%e3%81%8d/

人生を変えた現象「天の扉開き」(上巻)
http://amzn.asia/c9MjE5e

天の扉開き(あまのとびらびらき)
http://amanotobira.pw/

武運濃神社 Takehakobinojinja
http://takehakobinojinja.com/index.html

武運濃神社 宮司のブログ
http://takehakobinojinja.com/archives/category/blog
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 08:06| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

人生とは、天宙とは、真理とは、

人生を生きるとは何か、
その真理の扉へのステップでもある
数多くの現代科学では説明できない現象
科学信者にとっては、
偽科学、似非科学などとレッテル張りして
非難の対象なっていたり、
非科学的だから信じないと否定されたり
しかし、現象として、存在している事象であり
誰もが一定の条件下において経験可能な事象であるなら
その現象を否定し、偽とか似非とか言うことの方が
非科学的であると言えるでしょう。
手品でもトリックでもない自然現象であり
再現性もあり、客観性もあり、普遍性もある
無から有が生じる物質化現象
それは、現代科学の限界と
この世界の更なる広がりを示す
神からの贈り物であると言えるかもしれません。

この天宙のあり様と、
今の人生を生きることの意味と
人という存在がなぜこの様な状況にあるのか
そして、何を成すのが生きる上で
最終的な価値へと繋がっていくのか
真理の扉は、確かに用意されているのです。
しかし、その扉を開くか否かは
それぞれの責任として委ねられているのです。

無知から既知への段階
既知から行動への段階
それぞれに、それぞれの壁があり
重しがあり、超えなければならないものが
存在しています。
決断することの難しさ
何を優先すべきなのかの判断の困難さ
その苦悩の先に、
見えてくるものがあるでしょう。
今世は、唯一のものであることは
間違いのない事実です。
来世はまた別のものであるのですから。
だからこそ、今世において何をなすべきか
どう生きるべきかが、重要なものであり
大切なことであるということになります。

私、自身、まだまだ迷いもあれば
悩みもあるし、まったくもって情けなくなる
歩みしか出来ていないと感じることが多いです。
少しでも、良き善き歩みが出来るように
生きていければ幸いです・・・・・。


日本天の扉開きプジャ
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天の扉開き
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 11:24| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

目に見えないものを信じることの大切さ

本日、日本有史以来初の出来事がありました。
幸いなことに、私は、その場に立ち会うことが出来ました。
とても光栄なことであり、とてもありがたいことであります。
本当に大切なことは何なのか、
主観と客観の垣根を超えた先にある真実と向き合うとき、
多様な視点、多様な考えを包括し受入咀嚼して認識し理解する
そこには主観も客観もなく真実があるのみと言う事。
悟ることへの第一歩未満かもしれないけれど、
その一歩が人生を大きく変えていくことになるのは
間違いのないことでもあるわけです。

神、聖霊、スピリチュアルな存在、・・・
目に見えぬものであても、
確かに、ここにいるのであり、
その事実は疑う余地はないものであるのです。
日本人の先人たちは、
そんな存在を敬愛し畏怖し、
共に暮らしていたのです。
ゆえに、禁忌や祭事が生まれてきました。
それらは、目に見えない存在と共に生きるための
知恵であり、学びであり、戒めであったのです。
人を守るための知恵、
幸せに生きるための知恵、
先人たちの教えには、そんな深い叡智を
伝承するものであたりするのです。

神社仏閣、日本は、神仏を信じ大事にしてきた民族でした。
しかし、明治維新後の西欧化、戦後の日教組教育の中で、
日本人としてとても大切な伝統や心情を忘れてしまっています。
恥じらいもなく無信仰と言い、目に見えない存在を否定し、
神聖なものへ敬意を払うことをしないで平然としている。
そんな日本人の状況が多くの今の日本の問題や不幸の背景にあり、
根本的な原因でもあることに、
はやく多くの皆さんが気がつく必要があるのだと言えるでしょう。
それを感じさせてくださる機会を得る事が出来ました。
ありがたいことでした。
そして、そのような機会を得たことに対する責任を感じさせられました。

目に見えるものとの出会いが
不幸なものにならぬように、
私達は、先人の知恵を思い出し、
学び直さなければならないのではないかと感じます。
多くの禁忌は、人々を守るための戒めであったことを、
祭事は、目に見えぬものに対する共存共栄の知恵で
あったことを、忘れてはならないと感じます。
自然と共に生きること、
それは、同時に目に見えぬ存在と共に生きることでも
あったことを、日本人の先人は知っていたのです。
そして、それらと善く共存するための知恵を学び
それを禁忌や祭事などの形で、伝承してきていたのです。
それを忘れてしまったとき、
人々は得てきた多くのものを失うだけでなく、
それ以上の負の影響を受けてしまうことになるでしょう。
そして、実際に、そうなっているのが
現代の日本社会であると言えるでしょう。
目先の対応では解決できない問題であることを知り、
その根本原因に目を向けること、
それには、まず、目に見えないものの存在を
信じ認めることからであると言えるでしょう。
本当の意味で、安心安全を得たいのであれば、
これを避けていくことは出来ないでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 05:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

禁酒・ベジタリアンのススメ

ラクシュミのプジャに参加する恩恵を賜って、
司祭からのお話を伺っているなかで、
あたらめて、信仰と神の叡智の学びにあたり
初歩ともいえる基本の第一歩としての禁酒、ベジタリアンの
生活の大切さを感じさせて頂きました。

お酒には、バッドスピリッツや、バッドエナジーが溜まります。
更にサタンや悪魔などがよってきやすく、
エンジェルや良い気などは去っていきます。
スピリチュアル的には最悪な状況を引き寄せる可能性が大です。
ゆえに、神と近い存在や、高いレベルの神であれば、
禁酒の教えは第一に入ってきます。
悪いカルマにもなるため、良いことなど霊的には何もありません。
深いところで、善き人生を歩みたいなら、
まずは禁酒からおすすめします。
ヨガや占いやヒーリングで、禁酒してない人は
霊的レベル低くいので注意が必要です。
更に、霊的レベルの低くケースはノンベジである場合です。
死体を食べる肉食は、霊的にはかなり低くなります。
肉はバッドエナジーやバッドスピリッツを吸収します。
また、死肉を求めてサタンやバッドスピリッツや
低級エンティティが集まってきます。
それを食らえば悪いカルマを増やすことになってしまいます。
悪いカルマを増やすのがいやであり、
運気を下げたくないなら、
死肉を食べることをやめるべきでしょう。
アストロノジー(占星術)、ワートゥスウ(風水)、
アーユルベーダ、ヨガなどの叡智について、
本来のきちんとした学びをしているなら初歩レベルで、
禁酒ベジタリアンであるはずです。
そうでない場合は、うわべだけ学んだレベルでしかないと言えるでしょう。
インチキではないものの本格的なものとは言えません。
神の叡知を学び、霊的により良い人生を歩みたいなら、
まずは、禁酒ベジタリアンになることであると言えるでしょう。

普段の生活の中でのお付き合いはさておき、
生活を共にし暮らし人生を共に歩むパートナーには、
やはり禁酒ベジタリアンであることが最低限の条件になりますね。
そこが一致していないと、一緒に暮らすのは無理になってしまいます。
霊的な影響は大きなものになりますから、
また、お互いの為にもならないでしょう。
そんな基本的なことを更に深く確認した場でもありました。
神の恩恵に感謝しつつ、自らの努力を怠ることなく
霊性修行の歩みを成していけたら良いなっとおもいます。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 08:51| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月01日

聖地〜大切にすべき場所

聖地〜大切にすべき場所
 聖地巡礼の旅の思い出

 イスラム教の聖地巡礼で、もっとも有名な「ハッジ」が
今年も、聖地メッカにて行われました。
日本ではあまり話題にはあがっていませんでしたが、
昨年の事故を踏まえて、今年は事故防止の警備が強化され、
さらに巡礼者の管理のために、コードタグを利用するなどの
IT導入も行われていたようです。

 聖地は信仰者にとっては、特別な存在です。
それを充分に理解した上で、訪れることが大切であると言えるでしょう。
特に注意すべきは、禁忌とされていることを守るということです。
旅行で訪れるような場合には、事前にそういった情報を
きちんと収集しておいて、禁忌を犯すことのないように
準備していくことが、最低限の礼儀であると言えます。
「郷に入りては郷に従う」という言葉があるように、
旅のマナーとして、意識しておきたいものだと思います。

 日本でも、四国八十八箇所巡礼が、60年に一度の丙申の逆打ちの
弘法大師空海との出会い伝説の年にあたるということで、
特別な賑わいをみせているようです。

 最近は、世界遺産になる聖地も多く、本来の信仰的な巡礼という形ではなく
観光などの楽しみの場になりつつあるところもあります。
聖地の霊的なレベルが低下しているところも多いのではないかと思います。
観光化の流れがあっても、敬虔な気持ちで訪れ礼を忘れない心をもった人が
多いのであれば、霊的な低下も少ないのでしょうが、
聖地への敬虔なる気持ちもなく、礼節もわきまえないような人が
多く訪れるようになったなら、善きスピリッツは去っていってしまいます。
多くの人に訪れてもらうことは確かに良いことではありますが、
それよりも大事なことは、聖地をきちんと護っていくことであるのを
忘れてはならないと感じます。

 私も、聖地巡礼の旅を体験したことがあります。
私は、ヒンドゥー、ジャイナのスワミに師事していますが、
そのスワミからのお誘いがあって、3年ほど前に
シヴァの住むと言われる聖なるカイラス山を1周するプラダクシャナの旅に
参加することが出来たのです。
巡礼の旅は、当然、禁酒、ベジタリアンの旅でもあります。
私の体験した聖地巡礼の旅について、少し紹介してみたいと思います。

 旅は、日本からバンコク経由でカトマンズに入り、ルンビニに移動し
お釈迦様の聖地を訪れるところからスタートしました。
ルンビニのホテルで1泊した翌日は、ホテルから近い
日本山妙法寺が建立した世界平和塔を参拝して、
カピラヴァストゥ跡を拝謁、ラーフラが出家したという寺院跡に立ち寄った後、
お釈迦様の生誕の地を拝礼しました。
マーヤ聖堂、アショーカ王の円柱、菩提樹と池、ホーリーな空気に包まれた地は、
まさに聖地というべきところでした。
その後、永遠の平和の火、タイの寺院を参拝して、再びカトマンズに移動して宿泊、
翌日からは、カイラスに向けての旅となりました。

 カトマンズからコダリへ、国境を越えて、ザンムー(2350m)に入り一泊、
ネーラム(3750m)へ移動し、高所順応のために三泊。
ネーラムから、トンラ峠(5050m)を越えてチベット高原へ、
ペクー・ツォ湖、ヤルツァンボ河を経て、サガ(4473m)に移動し1泊、
そこから、パルヤン(4575m)に移動して1泊、マユムラ峠(5182m)を越えて、
マナサロワール南湖畔、トゥゴ・ゴンバを経て、プラン(3800m)へ。
クジャ・ゴンパを参拝し、聖なる湖マルサロワール湖畔にて、
カイラーサを仰ぎみながら祈りを捧げました。
マルサロワール湖畔の寺院を参拝し、カイラーサ一周の起点の街である
タルチェン(4675m)へ移動。テント泊、ロッジ泊の旅でした。
旅は、チベット仏教における高僧ミラレパの足跡を追うような寺院参拝でもありました。
ミラレバは、マルパに師事して修行して、カイラーサで裸で12年瞑想し悟りを開いた方であり、
カイラーサに登った唯一の方であります。
壁画の語る意味や、寺院のいわれなどを学びながらの参拝は素晴らしい体験でした。

 タルチェンでの1泊後に、カイラーサ・プラダクシャナのスタートでした。
タルチェンから、タルチェンに戻るフルコルラ3泊4日のテント泊、徒歩巡礼です。
初日は、タルチェンから、チュク・ゴンパの下まで。
2日目は、河口慧海が感嘆した黄金渓を経てディラプール僧院の側まで。
3日目は、最大の難所であるドルマラ(5668m)を越えて、ジュン・チュ河沿い(5232m)まで。
4日目の最終日は、タルチェンまで。
火の鳥の恩恵などを受けつつ、
無事に、自分の足で歩いて、カイラーサ・プラダクシャナを完遂出来ました。
途中、熱心な信者の方が五体投地で巡礼されているのにも出会いました。
ドルマラの手前では朝日を浴びる美しいカイラーサを拝むことができました。
アディナータの降臨した場所であり、アジアの多くの宗教の聖地カイラーサを
拝むプラダクシャナの歩みは、やはり特別なものがありました。

 タルチェンで1泊し、翌日は、聖地ティルタプリ(4320m)へ、寺院を参拝し1泊。
フルコルラを成したあとは、ティルタプリから、パルヤン、
パルヤンからサガ、サガからザンムーへ移動して、
国境を越えてカトマンズへ、ほぼ毎日約250kmを車で移動する戻りの旅。
旅の終わりはカトマンズでの敬虔なる歩みでした。
パタンを訪ねて、クマーリーにダルシャンさせていただき、額に印(ビンディ)をつけていただきました。
丁度、ダサラのお祭りの期間であったので聖なる賑わいのある雰囲気がありました。
黄金寺、シヴァ寺院、旧王宮などを参拝して、ボーダナートへ、
その後、パシュパティナート寺院へ、葬儀の様子に立ち会うことが出来ました。
カトマンズからバンコク経由で日本に帰国。
長い期間の巡礼の旅でしたが、とても素晴らしい経験でした。

 巡礼の旅で感じたことは、
やはり、聖地は見物するところではなく、敬意をもって訪ね祈り捧げる場所、
畏敬の念をもって訪ねることが大切であるということでした。
信仰に基づいた聖地巡礼の旅、そこに関わるにあたっては、
やはり、心を清浄にし、畏敬と礼節を忘れることのないように対応していくことが大事です。

 世界遺産となったりした聖地についても、信仰に関わる場所であったなら、
やはり信仰という心の部分を忘れることなく、
単なる観光地というものではないということをしっかりと意識していくことが、大切なのではないかと感じます。
訪れる人も、迎える人も、信仰の心をわすれず接することが、
聖地を護っていくために必要なことなのではないでしょうか。


http://vpoint.jp/photogallery/73564.html
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 00:40| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする