2017年08月30日

人生とは、天宙とは、真理とは、

人生を生きるとは何か、
その真理の扉へのステップでもある
数多くの現代科学では説明できない現象
科学信者にとっては、
偽科学、似非科学などとレッテル張りして
非難の対象なっていたり、
非科学的だから信じないと否定されたり
しかし、現象として、存在している事象であり
誰もが一定の条件下において経験可能な事象であるなら
その現象を否定し、偽とか似非とか言うことの方が
非科学的であると言えるでしょう。
手品でもトリックでもない自然現象であり
再現性もあり、客観性もあり、普遍性もある
無から有が生じる物質化現象
それは、現代科学の限界と
この世界の更なる広がりを示す
神からの贈り物であると言えるかもしれません。

この天宙のあり様と、
今の人生を生きることの意味と
人という存在がなぜこの様な状況にあるのか
そして、何を成すのが生きる上で
最終的な価値へと繋がっていくのか
真理の扉は、確かに用意されているのです。
しかし、その扉を開くか否かは
それぞれの責任として委ねられているのです。

無知から既知への段階
既知から行動への段階
それぞれに、それぞれの壁があり
重しがあり、超えなければならないものが
存在しています。
決断することの難しさ
何を優先すべきなのかの判断の困難さ
その苦悩の先に、
見えてくるものがあるでしょう。
今世は、唯一のものであることは
間違いのない事実です。
来世はまた別のものであるのですから。
だからこそ、今世において何をなすべきか
どう生きるべきかが、重要なものであり
大切なことであるということになります。

私、自身、まだまだ迷いもあれば
悩みもあるし、まったくもって情けなくなる
歩みしか出来ていないと感じることが多いです。
少しでも、良き善き歩みが出来るように
生きていければ幸いです・・・・・。


日本天の扉開きプジャ
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天の扉開き
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 11:24| 静岡 ☀| Comment(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

目に見えないものを信じることの大切さ

本日、日本有史以来初の出来事がありました。
幸いなことに、私は、その場に立ち会うことが出来ました。
とても光栄なことであり、とてもありがたいことであります。
本当に大切なことは何なのか、
主観と客観の垣根を超えた先にある真実と向き合うとき、
多様な視点、多様な考えを包括し受入咀嚼して認識し理解する
そこには主観も客観もなく真実があるのみと言う事。
悟ることへの第一歩未満かもしれないけれど、
その一歩が人生を大きく変えていくことになるのは
間違いのないことでもあるわけです。

神、聖霊、スピリチュアルな存在、・・・
目に見えぬものであても、
確かに、ここにいるのであり、
その事実は疑う余地はないものであるのです。
日本人の先人たちは、
そんな存在を敬愛し畏怖し、
共に暮らしていたのです。
ゆえに、禁忌や祭事が生まれてきました。
それらは、目に見えない存在と共に生きるための
知恵であり、学びであり、戒めであったのです。
人を守るための知恵、
幸せに生きるための知恵、
先人たちの教えには、そんな深い叡智を
伝承するものであたりするのです。

神社仏閣、日本は、神仏を信じ大事にしてきた民族でした。
しかし、明治維新後の西欧化、戦後の日教組教育の中で、
日本人としてとても大切な伝統や心情を忘れてしまっています。
恥じらいもなく無信仰と言い、目に見えない存在を否定し、
神聖なものへ敬意を払うことをしないで平然としている。
そんな日本人の状況が多くの今の日本の問題や不幸の背景にあり、
根本的な原因でもあることに、
はやく多くの皆さんが気がつく必要があるのだと言えるでしょう。
それを感じさせてくださる機会を得る事が出来ました。
ありがたいことでした。
そして、そのような機会を得たことに対する責任を感じさせられました。

目に見えるものとの出会いが
不幸なものにならぬように、
私達は、先人の知恵を思い出し、
学び直さなければならないのではないかと感じます。
多くの禁忌は、人々を守るための戒めであったことを、
祭事は、目に見えぬものに対する共存共栄の知恵で
あったことを、忘れてはならないと感じます。
自然と共に生きること、
それは、同時に目に見えぬ存在と共に生きることでも
あったことを、日本人の先人は知っていたのです。
そして、それらと善く共存するための知恵を学び
それを禁忌や祭事などの形で、伝承してきていたのです。
それを忘れてしまったとき、
人々は得てきた多くのものを失うだけでなく、
それ以上の負の影響を受けてしまうことになるでしょう。
そして、実際に、そうなっているのが
現代の日本社会であると言えるでしょう。
目先の対応では解決できない問題であることを知り、
その根本原因に目を向けること、
それには、まず、目に見えないものの存在を
信じ認めることからであると言えるでしょう。
本当の意味で、安心安全を得たいのであれば、
これを避けていくことは出来ないでしょう。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 05:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

禁酒・ベジタリアンのススメ

ラクシュミのプジャに参加する恩恵を賜って、
司祭からのお話を伺っているなかで、
あたらめて、信仰と神の叡智の学びにあたり
初歩ともいえる基本の第一歩としての禁酒、ベジタリアンの
生活の大切さを感じさせて頂きました。

お酒には、バッドスピリッツや、バッドエナジーが溜まります。
更にサタンや悪魔などがよってきやすく、
エンジェルや良い気などは去っていきます。
スピリチュアル的には最悪な状況を引き寄せる可能性が大です。
ゆえに、神と近い存在や、高いレベルの神であれば、
禁酒の教えは第一に入ってきます。
悪いカルマにもなるため、良いことなど霊的には何もありません。
深いところで、善き人生を歩みたいなら、
まずは禁酒からおすすめします。
ヨガや占いやヒーリングで、禁酒してない人は
霊的レベル低くいので注意が必要です。
更に、霊的レベルの低くケースはノンベジである場合です。
死体を食べる肉食は、霊的にはかなり低くなります。
肉はバッドエナジーやバッドスピリッツを吸収します。
また、死肉を求めてサタンやバッドスピリッツや
低級エンティティが集まってきます。
それを食らえば悪いカルマを増やすことになってしまいます。
悪いカルマを増やすのがいやであり、
運気を下げたくないなら、
死肉を食べることをやめるべきでしょう。
アストロノジー(占星術)、ワートゥスウ(風水)、
アーユルベーダ、ヨガなどの叡智について、
本来のきちんとした学びをしているなら初歩レベルで、
禁酒ベジタリアンであるはずです。
そうでない場合は、うわべだけ学んだレベルでしかないと言えるでしょう。
インチキではないものの本格的なものとは言えません。
神の叡知を学び、霊的により良い人生を歩みたいなら、
まずは、禁酒ベジタリアンになることであると言えるでしょう。

普段の生活の中でのお付き合いはさておき、
生活を共にし暮らし人生を共に歩むパートナーには、
やはり禁酒ベジタリアンであることが最低限の条件になりますね。
そこが一致していないと、一緒に暮らすのは無理になってしまいます。
霊的な影響は大きなものになりますから、
また、お互いの為にもならないでしょう。
そんな基本的なことを更に深く確認した場でもありました。
神の恩恵に感謝しつつ、自らの努力を怠ることなく
霊性修行の歩みを成していけたら良いなっとおもいます。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 08:51| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月01日

聖地〜大切にすべき場所

聖地〜大切にすべき場所
 聖地巡礼の旅の思い出

 イスラム教の聖地巡礼で、もっとも有名な「ハッジ」が
今年も、聖地メッカにて行われました。
日本ではあまり話題にはあがっていませんでしたが、
昨年の事故を踏まえて、今年は事故防止の警備が強化され、
さらに巡礼者の管理のために、コードタグを利用するなどの
IT導入も行われていたようです。

 聖地は信仰者にとっては、特別な存在です。
それを充分に理解した上で、訪れることが大切であると言えるでしょう。
特に注意すべきは、禁忌とされていることを守るということです。
旅行で訪れるような場合には、事前にそういった情報を
きちんと収集しておいて、禁忌を犯すことのないように
準備していくことが、最低限の礼儀であると言えます。
「郷に入りては郷に従う」という言葉があるように、
旅のマナーとして、意識しておきたいものだと思います。

 日本でも、四国八十八箇所巡礼が、60年に一度の丙申の逆打ちの
弘法大師空海との出会い伝説の年にあたるということで、
特別な賑わいをみせているようです。

 最近は、世界遺産になる聖地も多く、本来の信仰的な巡礼という形ではなく
観光などの楽しみの場になりつつあるところもあります。
聖地の霊的なレベルが低下しているところも多いのではないかと思います。
観光化の流れがあっても、敬虔な気持ちで訪れ礼を忘れない心をもった人が
多いのであれば、霊的な低下も少ないのでしょうが、
聖地への敬虔なる気持ちもなく、礼節もわきまえないような人が
多く訪れるようになったなら、善きスピリッツは去っていってしまいます。
多くの人に訪れてもらうことは確かに良いことではありますが、
それよりも大事なことは、聖地をきちんと護っていくことであるのを
忘れてはならないと感じます。

 私も、聖地巡礼の旅を体験したことがあります。
私は、ヒンドゥー、ジャイナのスワミに師事していますが、
そのスワミからのお誘いがあって、3年ほど前に
シヴァの住むと言われる聖なるカイラス山を1周するプラダクシャナの旅に
参加することが出来たのです。
巡礼の旅は、当然、禁酒、ベジタリアンの旅でもあります。
私の体験した聖地巡礼の旅について、少し紹介してみたいと思います。

 旅は、日本からバンコク経由でカトマンズに入り、ルンビニに移動し
お釈迦様の聖地を訪れるところからスタートしました。
ルンビニのホテルで1泊した翌日は、ホテルから近い
日本山妙法寺が建立した世界平和塔を参拝して、
カピラヴァストゥ跡を拝謁、ラーフラが出家したという寺院跡に立ち寄った後、
お釈迦様の生誕の地を拝礼しました。
マーヤ聖堂、アショーカ王の円柱、菩提樹と池、ホーリーな空気に包まれた地は、
まさに聖地というべきところでした。
その後、永遠の平和の火、タイの寺院を参拝して、再びカトマンズに移動して宿泊、
翌日からは、カイラスに向けての旅となりました。

 カトマンズからコダリへ、国境を越えて、ザンムー(2350m)に入り一泊、
ネーラム(3750m)へ移動し、高所順応のために三泊。
ネーラムから、トンラ峠(5050m)を越えてチベット高原へ、
ペクー・ツォ湖、ヤルツァンボ河を経て、サガ(4473m)に移動し1泊、
そこから、パルヤン(4575m)に移動して1泊、マユムラ峠(5182m)を越えて、
マナサロワール南湖畔、トゥゴ・ゴンバを経て、プラン(3800m)へ。
クジャ・ゴンパを参拝し、聖なる湖マルサロワール湖畔にて、
カイラーサを仰ぎみながら祈りを捧げました。
マルサロワール湖畔の寺院を参拝し、カイラーサ一周の起点の街である
タルチェン(4675m)へ移動。テント泊、ロッジ泊の旅でした。
旅は、チベット仏教における高僧ミラレパの足跡を追うような寺院参拝でもありました。
ミラレバは、マルパに師事して修行して、カイラーサで裸で12年瞑想し悟りを開いた方であり、
カイラーサに登った唯一の方であります。
壁画の語る意味や、寺院のいわれなどを学びながらの参拝は素晴らしい体験でした。

 タルチェンでの1泊後に、カイラーサ・プラダクシャナのスタートでした。
タルチェンから、タルチェンに戻るフルコルラ3泊4日のテント泊、徒歩巡礼です。
初日は、タルチェンから、チュク・ゴンパの下まで。
2日目は、河口慧海が感嘆した黄金渓を経てディラプール僧院の側まで。
3日目は、最大の難所であるドルマラ(5668m)を越えて、ジュン・チュ河沿い(5232m)まで。
4日目の最終日は、タルチェンまで。
火の鳥の恩恵などを受けつつ、
無事に、自分の足で歩いて、カイラーサ・プラダクシャナを完遂出来ました。
途中、熱心な信者の方が五体投地で巡礼されているのにも出会いました。
ドルマラの手前では朝日を浴びる美しいカイラーサを拝むことができました。
アディナータの降臨した場所であり、アジアの多くの宗教の聖地カイラーサを
拝むプラダクシャナの歩みは、やはり特別なものがありました。

 タルチェンで1泊し、翌日は、聖地ティルタプリ(4320m)へ、寺院を参拝し1泊。
フルコルラを成したあとは、ティルタプリから、パルヤン、
パルヤンからサガ、サガからザンムーへ移動して、
国境を越えてカトマンズへ、ほぼ毎日約250kmを車で移動する戻りの旅。
旅の終わりはカトマンズでの敬虔なる歩みでした。
パタンを訪ねて、クマーリーにダルシャンさせていただき、額に印(ビンディ)をつけていただきました。
丁度、ダサラのお祭りの期間であったので聖なる賑わいのある雰囲気がありました。
黄金寺、シヴァ寺院、旧王宮などを参拝して、ボーダナートへ、
その後、パシュパティナート寺院へ、葬儀の様子に立ち会うことが出来ました。
カトマンズからバンコク経由で日本に帰国。
長い期間の巡礼の旅でしたが、とても素晴らしい経験でした。

 巡礼の旅で感じたことは、
やはり、聖地は見物するところではなく、敬意をもって訪ね祈り捧げる場所、
畏敬の念をもって訪ねることが大切であるということでした。
信仰に基づいた聖地巡礼の旅、そこに関わるにあたっては、
やはり、心を清浄にし、畏敬と礼節を忘れることのないように対応していくことが大事です。

 世界遺産となったりした聖地についても、信仰に関わる場所であったなら、
やはり信仰という心の部分を忘れることなく、
単なる観光地というものではないということをしっかりと意識していくことが、大切なのではないかと感じます。
訪れる人も、迎える人も、信仰の心をわすれず接することが、
聖地を護っていくために必要なことなのではないでしょうか。


http://vpoint.jp/photogallery/73564.html
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 00:40| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

ビッグバンは無く、風によって始まった宇宙

ビッグバンは無く、風によって始まった宇宙


宇宙年齢137億年
ビッグバンで始まったばかりの宇宙
とても小さくて、しわくちゃな宇宙
そのしわくちゃの宇宙に
アイロンをかけたように
引き伸ばして平らになった
平坦な空間
インフレーション理論による世界。
宇宙100兆分の1秒のさらに
1兆分の1秒くらいの年齢の時のこと
そして、宇宙は膨張を始め
どの部分も均一、
次第に暗黒物質同士が集まり、
重力によって星が形成されていく。
現在の冷たい宇宙とは違い熱かった。
ただし、
光や電波を使っても
38万歳より先は見えない。

本当に宇宙はビッグバンから始まったのか?
そうではない可能性もあり得るはず。
宇宙の始まりの公理をどう定義するのか。
それによって見えてくる姿は変わりうる。
偶然から始まったとするビッグバン公理。
しかし、本当にそうなのか?。
意思と意図があって始まったとする公理。
静かに爆発など起こらないで
始まった宇宙がそのにはある。
無から有が生じるという瞬間。
まさに宇宙創生の瞬間である。
四大元素のエネルギーを使い最初の物質が出現する。
濃く密度高く、今の宇宙を創生するための存在が
意思と意図をもって出現した瞬間である。
そして、宇宙は広がっていく。
宇宙100兆分の1秒のさらに
1兆分の1秒くらいの年齢の時に至り、
膨張し、この世の理によって
変化していき、今に至ることになる。
生命の星、地球を生みだすために。
それが、宇宙創造の物語。

無から有が生みだされる瞬間を、
今、私たちは目にすることが出来る。
まさに、宇宙創生と同じ原理がそこにはある。
それを知るか否か、
それを観るか否か、
まさに、それぞれの人が自身により
決めるべきことなのである。

宇宙創造の真理は、
まさに、
”求めよ、さらば与えられん”
という言葉が示す通りであって
それ以上でもそれ以下でもない。

今、この世界で、まさに宇宙の歴史を
一瞬に圧縮して顕現する現象が存在している
宇宙の始まり、
宇宙100兆分の1秒のさらに
1兆分の1秒くらいよりも以前から、
元素が生まれた瞬間に至るまで
その時間とその現象が、
地球上にて、再現されているのである。
それは、意思と意図によって
顕現されている。

この天宙、世界の姿の真実と
この現世、銀河宇宙の創造の真理は、
無から有が生じる現象のその先に
存在している。
もし、あなたが、天地創造の真実を知りたいのであれば
この宇宙の真の公理とは何であるべきなのかを
そして、宇宙創造の真の姿を知りたいのであれば
まずは、無から有が生じる現象を
その目で確かめてみるべきだろう。
その事実を、しっかりと見極めること。
自分自身の目で、その現象を確認すること。
すべては、そこから始まるのだから。


天の扉開き(PC)
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天の扉開き(モバイル)
http://amanotobira.pw/
天の扉開き : 真の 超常現象 物質化現象 を捉えた映像 No.001
https://youtu.be/31X3eTXLekA
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2016年06月20日

健康と霊性の関係

「健康と霊性の関係」

 健康でありたい。誰もがそう願っているのではないでしょうか。
高齢社会となり、福祉や社会保障の観点からも健康に関する取り組みが
重要なものになってきています。
多くの人が、健康のまま逝くことが出来たなら、
社会保障にかかるコストの増大も回避することが出来ることでしょう。
よくメディアや政治家で取り上げられる社会保障と老齢社会の問題では
増大していく費用を、どの様に捻出していくのかという視点が多く
増大させないためにどうすべきなのかという視点が少ないように感じます。
「ピンピンコロリ」という言葉を聞いたことがある方も
いらっしゃるのではないでしょうか。
人は誰もが死の時を迎えます。逝くその時まで元気でいたい。
それこそが理想的な姿ではないのかっと言うことです。
であるならば、健康について、もっと考えていく必要があると言えるでしょう。

WHO憲章の前文における「健康」の定義は、
「Health is a state of complete
physical, mental and social well-being
and not merely the absence of disease or infirmity. 」
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、
 肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが
 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」
となっています。
しかし,1998年にこれではまだ不足ではないかとして
WHOに提案されたものがあります。
その定義は、
「Health is a dynamic state of complete
physical, mental, spiritual and social well-being
and not merely the absence of disease or infirmity. 」

 これは、健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、
肉体的にも、精神的にも、霊性的にも、社会的にも、
すべてが、動的に関連するなかで、満たされた状態にあることだと
いうことを示唆するものだと言えるでしょう。
4つのポイントと、それぞれに関連する事象を考えて
並べてみると...

社会的に健康であるということ
 =衣食住環境、教育、労働、権利と義務、絆
 =夫婦関係、親子関係、家庭環境、親族関係、師弟関係
 =人間関係(近所、地域、学校、会社、自治体、・・・)

肉体的に健康であるということ
 =身体の健康=物理的生物的な正常な機能動作=成長
 =運動、睡眠、飲食
 =怪我、病気、バラン

精神的に健康であるということ
 =心の健康=知情意、理性、感情
 =欲望、ストレス、ク―ラン、ブラックマジック

霊性的に健康であるということ
 =魂=ジッ制御レベル=脳活用レベル
 =カルマ、徳分、シャクティ、バラミ―
 =チャウカムナンウェ

これは、ひとりの人間としての健康を示すわけですが、
実は視野を広げて考えるのであれば、
法人や組織、団体、国家に対しても言えることではないでしょうか。
日本人は擬人化が得意ですが、
まさに、擬人的な視点をもって考えることの中に
健康で健全な社会、国家、世界があると言えるように思います。
平和や安全、安心を考えるとき、
やはり、利己心ではなく、利他心が中心となるべきであり
その考え方がそれぞれのレベルで当り前になっていくのであれば
すべては良い方向に向かっていくと言えるのではないでしょうか。
それらのバランスの根源を支えるものは何なのか、
聖者レベルの方を除くとしたら、
実は、それこそが、信仰心であるような気がします。
神の叡智と神の法の下にあって、
まだ幼き人の心を支える核心と言えるものが
信仰心であると言えるでしょう。
宗教というものは、実は信仰心を支えるための器でしかなく
単なるツールであるとも言えるわけです。
信仰心の質とレベルに応じた器を
神は用意されて下さっているのだと言うだけのことで
あったりするわけです。
神を知り、信じることすら不要になったなら、
信仰心というものすら意味のないものになってしまいます。
ただ、霊性をそのレベルにまで高めることは
とても難しいことであるわけです。
神の叡智を知ったからといっても、
それを体現したことにはなりませんし、
会得したことにもなりません。
叡智を自然体で意識することなく実践することが出来るようにならなければ
悟りの境地、解脱へと至ることはないのですから。
健康ということを考えるのであれば、実は、

 社会的 < 肉体的 < 精神的 < 霊性的

という感じの優先度になっていくと言えるかもしれません。
より高次元という意味においてです。
高次元のレベルで健康であれば、
多くの場合、低次元の健康は付随してきてしまったりもします。
ただし、それを実感することは、
また難しいことでもあったりするのですが・・・・。
人は、ひとりひとり異なる存在です。
従って、健康もまた、異なるということになってしまいます。
それぞれが、自分自身にとっての健康のあり方を
考えていくことが、大切であるということなのかもしれませんね。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:50| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月05日

私と宗教の関係を振り返る

私と宗教の関係を振り返る

 カルマなのか、なぜか今世においては、
宗教と関わり合いになる機会が多いように思います。
それは、生まれたときに未熟児で自分で呼吸をできず
医者から祖母が、もしかしたら覚悟しておいて下さいと
言われたという話を聞いたこともある人生の出だしから
運命付けられていたのかもしれません。
名付けにあたっては、父が神社にお願いして、
神主様に考えていただいた名前の候補の中から選んだそうです。
朱印のある命名書があったりしました。
日本の伝統的な慣習に従って、
七五三のお祝いもしっかりとしてもらってましたし
端午の節句のお祝いもしっかりしてもらってました。
お盆にはお墓参り、正月には初詣、欠かさない家庭でした。
そして、なぜか、幼稚園に入園することになり
星美学園付属幼稚園というキリスト教系の学校に
通うことになって、イエス様とマリア様に出会ったのでした。
朝の登園時、退園時には必ず園の門の側のマリア様の像に挨拶をして
月に一度は礼拝堂での礼拝に参加していました。
「父と子と聖霊のみ名のもとにアーメン」
この言葉を十字を切りながら毎日何度となく唱えていました。
イエス様とマリア様のお話しを聞き、
聖歌を歌うといったことが、日常の中にあったのです。
バザーや聖母行列、クリスマスといった行事や
学芸会でのイエス様御生誕の劇など、
今も記憶に残っています。
良いことをすると、シールを貼っていく手帳などもありました。
 サンタクロースの存在を信じ、天使の存在を信じ、
イエス様とマリア様に感謝のお祈りを捧げていた日々。
3年間の幼き信仰生活であったと思います。
公立の小学校に入っても、イエス様やマリア様の像に
お祈りしていました。
また、なぜが英会話教室の先生がクリスチャンで
あったりして、中学校に入ってからは、
プロテスタントの教会の英語塾に通っていたりします。
聖日礼拝に参列させていただいたこともありました。
 小学校高学年の頃にはコックリさんが社会問題になったり
学校の怪談話が流行ったり、心霊現象に関心を持つことが
多かったりしました。
超能力、エクトプラズム、心霊手術といったものに
興味をもって、本をいろいと読んだりしたものです。
エクソシスト、ノストラダムスの大予言、UFO、
ピラミッドパワー、魔術、占い、SF、妖怪、などなど
科学的に解明できるはずという想いを持ちながら
四次元図鑑や超常現象辞典などを読んだりしていたわけです。
そして、死を身近に感じたのは、まだ赤ちゃんであった従妹が
亡くなったとき、祖父が亡くなられたときだったと思います。
祖父が亡くなったとき、孫のひとりとして棺を運ぶのを
手伝うことになり、骨壺に骨を納めるお手伝いをしました。
少し不思議な夢にうなされる体験などをしたのもその頃でした。
小学校の卒業文集の夢にアインシュタインの様な科学者という様な
記述をしていたのは、科学で未知なる現象を解明したいという
想いがあったからだとも言えるでしょう。
中学では郷土研究部に所属して、市内の寺社仏閣や史跡伝承などを
調べたりもしていました。
羽衣伝説、牛石伝承、女体の森、草なぎの剣伝説、・・・
いろんな言伝えやお話が伝わっているものですが、
意外と知らないことが多いのだなということも感じました。
中学、高校とも、修学旅行は、奈良京都でしたので、
仏教に触れる機会も多くありました。
天理教や立正佼成会、創価学会などの冊子が何故か自宅にあり
読んだりすることもあったりしました。
中学高校時代は読書好きで、聖書はもちろんですが、
仏教やキリスト教関連の本やスピリチュアル系の本も
良く読ませてもらっていました。
 大学時代は、キリスト教系の宗教にどっぷり浸かっていた時期もあり、
真光や幸福の科学などの会に参加してみたりすることもあったりしました。
社会人になってからは、仕事に浸かっていた時間が
殆どになってしまってはいましたが、
神や超常現象、スピリチュアル関連への興味は変わりなかった感じです。
その後、仕事浸けの過負荷からか身体をこわすことになって
人生の流れが変わることになります。
ITC資格取得してそれまでとは異なる視点や人との関わりのなかで
ビジネスや社会を観ることが出来るようになり、
生活習慣病指導士などの勉強のなかで、カウンセリングや医療の分野に
触れることになったりもしました。
市民活動への関心から、一新塾へと入塾して、
そこでの出会いから、また大きな変化があったという感じです。
禁酒、ベジタリアンになり、
フィリピンの心霊治療を体験したり、
タイのスピリチュアルな事象を見聞したり
ルンビニやカイラーサへと巡礼したり、
神の叡智に触れ、信仰と宗教について、新しい視野が開けることを
実感させられることになったわけです。
超宗教という言葉がありますが、
神の叡智を知れば、その言葉は、所詮は人の視点で考えるレベルのことでしかないことがわかります。
神の世界では、当たり前であることも、人の世界では特別なことになってしまうということなのです。
現代科学が、まさに砂漠の中の小さじの一杯の砂にも及ばないものであることを実感させられます。
神道を尊び、天皇陛下を敬愛する日本人であり、
お釈迦様を尊する仏教徒であり、
イエス様を愛するクリスチャンであり、
ヒンドゥーの神々を拝するヒンドュー教徒、ジャイナ教徒であることは
何の矛盾もなく、当たり前のことであるという認識と意識が
私の中に根をおろしてします。
そして、それらは何ら矛盾するものではありません。
現代科学や現代医学の位置付けにしても
ヒーリングや超常現象にしても、
この世において、実際に存在している現象は、現象として認めるべきであり
それらの現象は、視点を変えてみれば、矛盾するものでもなく
神の叡智の中に包括されるものでしかないということなのです。

先だって、天の扉開きツアーに参加することが出来ました。
http://www.amanotobira.com/
神の世界と現世が繋がり、神の世界から流れ出るエネルギーが
ある神聖なる存在の介在により、
物質を生みだすという現象です。
何もない空間から、物質が出現してくるのです。
それは、トリックでもなければマジックでもない
事実として存在している現象であることは、
立ち会えばはっきりと認識することが出来ます。
ニュートンは、林檎の実が何故落下するのかということから
万有引力の法則を導き出したと伝えられます。
ガリレオは、天体の動きを精密に観測し続けた結果としての
データから、地動説ことが正しい姿だと知りました。
科学というものは、存在している現象を認めることから
始まっているのだと言えるでしょう。
であるなら、この物質が出現するという現象を認めることから
どんな法則が導きだされるのか、科学者に問われていると
いえるのかもしれません。
事実として存在している現象が、現状の法則に合わないから
見て見ぬふりをする。その姿勢は、ニュートンやガリレオを批判し、
アインシュタインを批判した愚かな科学者と同じであると言えるでしょう。
事実と正面から向きあうことが科学者のあるべき姿であると
いうことなのだと思います。
ぜひ、体験すること、自分の目で確認することをお勧めします。
そこから何を感じ、何を得るのかは、それぞれの皆さんの
責任分担となるのですけれど、
知れずしては何も始まらないことは真理であり事実ですから。
ちなみに、現代科学では説明できない事象も、
神の叡智で説明することは可能です。

多くの宗教と出会い、信仰を知り、人生を歩んできましたが
残された今世の人生を、どう歩んでいくのか、
常に、問われているのだなっと感じる次第です。
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posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 22:49| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月15日

目に見えないものを信じるということ

「目に見えないものを信じるということ」
 〜信仰の価値と信仰への誘い〜


「お天道様がみているよ」
「天罰が下るよ」
「雷様がお臍をとりにくるよ」

 日本人が幼いころにきかされる言葉には
目に見えないものの存在が語られているものです。

目に見えないものの存在を信じるか否か、
それは、まさに信仰に関わる部分であると言えるでしょう。
宗教の根源は、まさに信じるか否かにあるのです。
神様の存在、仏様の存在を信じるかどうかということなわけです。

もし、あなたが、神様や仏様を信じているなら、
無宗教ではないということでもあります。
何らかの信仰を持っているということになるからです。
世界において、無宗教と言えば、無神論者か唯物論者だと
認識されてしまうのが一般的であると言えるでしょう。
ところが、多くの日本人には、そんな感覚がありません。
戦後の教育の失敗が、安易に無宗教という言葉を
選ばせていると言えるのではないのかと感じます。

もし、あなたが無宗教だと言いながら、
神社にお参りし、仏様に手を合わせているのであれば
きっと、偽善者であると思われてしまうでしょう。
国際社会で活躍したいのであれば、
きちんとした宗教観をもっておくことが大切です。
お墓参りをするのがお寺であるなら、
無宗教と言わずに、仏教ですと言えますし、
神棚があって、葬儀を神式で行うのであれば
神道ですと言っておくのが良いでしょう。
もちろん、自分は神も仏も信じない、無神論者である
唯物論者であるというのであれば、
無宗教と言って良いのは当然です。
しかし、多くの国では信頼されないことでしょう。
表向きはきちんと対応してくれるでしょうけど
本音の部分では、一歩距離を置かれてしまっているということです。
何故なら信仰なきものは簡単に裏切るだろうと思われてしまうからです。
お金の切れ目や利益の切れ目が縁の切れ目となる人だと
義理や恩など無関係な人であるのだろうと思われてしまうのだと
言えるでしょう。
ビジネスライクでは付き合えるとしても
そこから先は無理であるという印象を持たれるということなのです。
過去の歴史が物語る無宗教、共産主義の世界で行われた
粛清や裏切りの数々が、信用出来ないという心情を
つくってきたとも言えるかと思います。

人は弱いものです。
欲望に流され、道徳を忘れて、過ちを犯してしまうことがあるのです。
その過ちを出来るだけ犯さないようにしてくれるもの
それが、信仰であると言えるでしょう。

目に見えない存在を信じるのであれば、
他人が見ていなくとも、見られているのだと思えるのです。
そして、人は、誰かに見られているという環境においては
理性が働きやすくなるものなのです。

信仰の価値とは、まさに人を理性的にすることにあると言えます。
そして、そのことが、平和の礎ともなるのです。
宗教と言われるとちょっと引き気味になってしまうのであれば
まず、目に見えない存在が確かにいるのだということを
信じてみることから始めてみれば良いでしょう。
それが、信仰への第一歩となることでしょう。
より崇高なもの、より愛することの出来るもの
そんな存在を信じているとき、
人は、その存在に対して畏敬の念を持ち、
裏切ることは出来ないという思いを持つことが出来るのです。
そして、その事が理性的な行動を促すことに
繋がっていくのだと言えるでしょう。

神様でも仏様でも御先祖様でも良いのです。
幽霊でも妖怪でも宇宙人でも良いのです。
目に見えない存在、人ではないけれども人の様な存在、
人以上の存在が、確かにいるのだと信じてみることが
人生をより深く、より充実したものにしていくことへと
繋がっていくのだと言えるでしょう。

信じられないのであれば、
それらの存在と出会うことの出来るように
ちょっと行動してみては如何でしょうか。
まずは、出会ったことのある人の話を聞いてみることでも
良いと思います。
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 13:45| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月17日

日本人の多くが欠けている宗教への理解

「日本人の多くが欠けている宗教への理解」
 〜なぜ、今、宗教について語るのか〜


あなたの宗教は何ですか?
この問いに対して、あなたは何と答えるでしょうか。
多くの日本人が、特に気にもせず考えもせず
「無宗教です」と答えてしまうのかもしれません。
ところが、その一方で、多くの人が、
お正月に初詣をし、七五三のお宮参りをし、
聖バレンタインデー、ハロウィン、クリスマスを祝い、
お盆にお墓参りをし、お祭りにお神輿を担いだり
していたりするわけです。

日本の戦後の失敗のひとつに、宗教に対する意識改悪があるといえます。
それは、戦前の日本の強さを恐れた戦勝国の方針と
神を否定する唯物共産主義の日教組によってもたらされた不幸であるともいえます。

しかし、世界に視野を広げたとき、
宗教への理解は非常に重要なものとなっているのです。
国によっては、信仰している宗教を確認して
無宗教であると信頼されないということも実際にあります。
戦後の日本人の国際性の欠けている部分のひとつは
間違いなく宗教への理解不足にあると言ってよいでしょう。
戦後からの脱却のためには、まさに宗教への理解を見直すことが
必要となっているのだと考えられます。

日本人は、非常に信仰深い民族です。
自然との共存共栄のなかで、目に見えない存在を信じ、
畏れを抱き、崇拝し、大事にしてきた歴史があります。
自然信仰をベースとした日本の文化の礎ともなっているのが
神道であると言ってよいでしょう。
大樹や動植物、死者をも神として祀ることが行われきていたわけです。
神話の世界から、身近な生活に至るまで、
目に見えない存在と共に生きてきた民族であったわけです。

仏教、儒教、道教、キリスト教と
海外から伝わってくる宗教に対しても
排斥するのではなく、受け入れて共存するというのが
基本的なスタンスであったわけです。
政治が絡むと例外的な対応が成されてきたことも確かですが、
基本的な部分においては、受容するというのが
日本人の信仰感覚であったと言ってよいでしょう。
結局のところ、歴史を振り返ってみれば、
日本人の宗教観を崩していったのは、
政治との関わりの中と教育の中にその要因が
あったのだと感じます。

まず、江戸時代における初期のキリスト教弾圧と
神仏を政治に利用して民衆を管理した寺社制度によって
宗教が大衆化に向かうことになってしまいます。
そして、明治維新、廃仏毀釈で、神道を国教として
天皇を現人神に奉りあげてしまいます。
その結果としての戦争と敗戦、
占領軍によって、政教分離が行われると共に
教育の中から宗教的なものが排除されてしまいます。
その結果、教育は唯物的なものとなってしまい。
宗教的な教育が希薄となっていきました。
宗教は道徳と密接に関わっています。
道徳意識の低下が、実は日本の現代社会における
多くの問題の根底に流れているのではないでしょうか。
道徳意識の向上させていくためのひとつの要素として
宗教的な意識の見直しや教育の在り方を考えていくことが
必要であるように感じます。
これは、単に宗教界だけの問題ではなく、
教育界の問題でもあり、地域社会の問題でもあり、
ひとりひとりの個人の問題でもあると言えるでしょう。

ここまでの話は、あくまでも私の個人的な歴史観であり
社会や宗教に関するとらえ方にすぎません。
そうではないと思われる方もいらっしゃるでしょう。
もちろん、宗教観や歴史観は、個々に異なるものでしょうし、
異なっていることは悪いことではないと考えます。
多様性があるのは、当然なことです。
ただし、異なるからという理由で、
反目し合うことに価値があるとも思っていません。
それぞれの視点を認めつつ、その中で共有できるものを
互いに確認し、尊重し、認め合っていくことが
大切であるのだと言えるでしょう。

宗教への理解と信仰への意識について、
今一度、ひとりひとりが自分のこととして
見つめ直してみることが必要になっている時代であると
感じています。
だからこそ、宗教観と信仰観について、
感じること学んだこと考えたことを、
お伝えしていくことに価値があるのだと思っています。



多くの日本人に欠けている宗教への理解
http://vpoint.jp/column/63781.html
posted by 禁酒・禁煙・ベジタリアンのITコーディネータ 松原広幸 at 13:33| 静岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:神の叡智から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする